鬼滅の刃無限城編の映画みたよ考察
『鬼滅の刃 無限城編』ついに始まりましたね……!上弦との戦いがこれまで以上に苛烈で、映像と音の迫力がすごすぎて息を呑みました。テレビアニメシリーズでは出せない劇場ならではの緊張感があったと思います。梶浦由記さんの痛みと緊張感が感じられる旋律も素晴らしくて、獪岳戦クライマックスで流れたピアノの曲が特に印象に残りました。
炭治郎がたどりついた、鬼の首を切るために闘気を消して透き通る世界に行く、無我の境地にいたるっていうのはいわゆる「ゾーンに入る」ってことなんですかね?相手の動きがゆっくりみえたり自分の体が意識せずとも動いたり。実感としてはわかりにくい話だけど、例えば全然運動してない人が少しでもプールに行ったりするとすごく疲れる、でもスポーツ選手だと基礎練習をたくさんしててどうやって泳げばいちばん無駄がないかわかってるから、少し泳いだぐらいでは疲れない、みたいなことなのかな?同じジャンプ漫画でも「テニスの王子様」でも無我の境地は出てくるし、「黒子のバスケ」でもゾーンが出てくるのでなんとなくですがすぐに理解できました。
でも炭治郎の場合は、身体能力だけじゃなくて精神的な“清らかさ”みたいなものも重要になってくるから、同じ「ゾーン」でもちょっとトーンが違ってて、どこか宗教的な静けさというか、仏教的な悟りに近いような描かれ方してるのがすごく特異的ですね。炭治郎は、父親が熊を殺したシーンを思い出すことで無我の境地にいたるんですが、炭治郎の父親は熊を殺したあと熊の死体を拝んでました。多分、炭治郎のたどりついた無我の境地はスポーツの世界でいう「ゾーン」と少しちがくて禅の世界、呼吸を制御して相手への殺意も、何も考えていない状態にいくということなんでしょうね。ゾーンのようでいて悟り、戦いの中で祈り。鬼滅の刃がここまで多くの人の心に残る理由のひとつが、きっとこの“戦いを超えた何か”を描いているところにあるのかもしれません。
実は、個人的にはもともと鬼滅の刃ってそこまで好きじゃなくて、というのも鬼滅の刃ってこっちを泣かせようとしてくるような‘’泣き‘’描写が多くて、なんだか胸焼けしそうになってしまうんですよね。鬼には悲しき過去…で回想シーンに入るのはいいんですが、死んだ大切な人の姿が出てきて勇気づける言葉をくれるっていうシーンが多すぎないですか?今回の映画だけで死人と話すシーンが、しのぶ姉、善逸の師匠、猗窩座の想い人と師匠と父親のシーン、で3つもあるんですよ。死人がでてくるにしても姿だけが見えるとか生前の会話を思い出している、なら戦闘中で生命の危機にひんして幻をみてるんだろうなって理解できるんですけど、鬼滅の刃で死人と話すシーンって、死人が生きてる側のキャラクターが思ってもないことを言ったり、会話してくれたりするんですよね。これはもう黄泉のくにから死人が話しかけてきてるとしか思えない。それって変じゃないですか?死んだあとも会話できるなら生の重みが失われるというか。「今まさにこの瞬間に、亡くなった人が現れて、生きてるキャラを励ましてくれる」っていう演出があまりに頻繁すぎて、死の不可逆性がぼやけてしまってる、生きているうちに言葉を尽くす重みとか死別の取り返しのつかなさが軽くなっちゃってる気がします。
とはいえ、モノローグで過去回想したり、死人と長く会話したりすることはわかりやすいドラマになるし、今の説明を求める大衆に受けやすかったのだと思います。実際に今回の映画もまだ公開したばかりなのに何10億もの興業収入を叩き出してますからね。でも日本的な言わなくてもわかる、言葉にするのは無粋っていう価値観ではなくなってきてるなと思います。ネットやSNSの影響もあるのかもしれないですね。情報は常に“補足されるもの”で、“ちゃんと説明して言語化するべきもの”だという感覚が広がってる。その結果、登場人物の気持ちがその場で全部言葉にならないと気が済まない人が増えてるようです。
対して、猗窩座の「まっとうな人間になるという約束」も「やっと見つけた大切な家族」も守れなかった自分自身に耐えきれなくて自死を選ぶ、というのはすごく日本人的な発想ですね。猗窩座が死のうとしても鬼の体ではなかなか死ねないというシーンはかわいそうで憐れで、猗窩座が作中きっての人気キャラクターなのも大いにうなづけます。猗窩座が自死っていう父親と同じ道をたどるのは宿命だったんですかね?猗窩座の父親も息子が病気の自分のために泥棒を繰り返し、お金を工面しようとしてくれることが申し訳なくなって首を吊ってます。自分が情けなくて耐えられなくて死を選ぶ、この恥の概念は日本人的美学ですね。健康的な思考ではないけど、すごくよく理解できます。善逸の師匠も弟子から鬼をだした責任をとって腹切りしてるしね。大正時代の話なのでそういう時代背景もあったと思います。
猗窩座といえば、お前も鬼にならないか?がミーム化してるくらい勧誘キャラなんだけれど、この勧誘も根っこには大切な人を守るため、と師匠に教わった武道を人殺しのためにつかってるという後ろめたさから、同じことをする仲間が欲しかったっていうのがあったんだと思います。同じように“武の道を極めていて、でもいまだに人間である奴”に対して、共犯を欲しがってる孤独な叫び。自分のやってることを正当化してくれる、鏡のような相手が欲しかった。自分と同じ苦しみを抱えて、同じ罪を背負ってくれる相手が。でもそのすべての勧誘は失敗に終わってしまいます。炭治郎は絶対に人間でいることを選び、煉獄さんも最後まで折れず、武を命のために使いきった。だから猗窩座はいつまでも“ひとりぼっちの鬼”のままだった。「仲間が欲しい」「理解者が欲しい」っていう動機が出てくるのは、鬼でありながら人間らしいですね。
それと、今回の映画はキャラクターがデフォルメになるギャグシーンが少なくて大人もみやすかったと思います。鬼滅の刃のギャグの部分ってなんか寒いというか、子供には受けそうなシーンだし、そもそも少年ジャンプなんだからそれでいいんですが、過剰な“顔芸”というか、テンションの急降下シーンになってしまってるんですよね。それがかなり抑えられてたから、確かに全体のトーンが締まってて“大人でも見やすい”仕上がりになってたと思います。
ただ、あの“寒いギャグ”があることで、普段は怖くて観れないっていう子どもたちが「なんかおもしろい」って思える入り口にもなってるならいいですよね。比較的遅い時間帯に鑑賞したんですが、劇場には子供が多くみられて根強い子供人気を感じられました。やっぱり子供っていう次世代がはまってくれないとアニメも漫画もカルチャーとして先細りになっちゃいますからね。鬼滅って、やっぱり“子供が最初に出会う本格的な物語”として、すごくよくできてると思います。家族愛、死、喪失、努力、そして赦し――重いテーマを分かりやすく、しかもかっこよく見せてくれますからね。鬼滅の刃を観た子供たちの、一生の感受性に、強い原体験になってくれることを願います。