沼に飛ぶ!!

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秋です。家父長制による男性の生きづらさを解体しよう。

  国連が家父長制を解体しようというツイートをして、そもそも日本にもう家父長制はない、検討違いなこと言うななどと叩かれているみたいです。国連が口を出すようなことかはわかりませんが、日本は現代でも家父長制に縛られていると思います。

 

  家父長制は一家の長である男性が家族を経済的にも精神的にも支え、妻や子はそれに従うというものです。家父長制の反対は男性の支配にNOと言う、いわゆるフェミニズム的な思想ともとらえられがちですが、家父長制により苦しめられているのは女性だけではなく、むしろ男性のほうです。

 

  まず第一に男性に求められる役割が重いです。妻子、場合によっては祖父母世代までの生活の面倒をみるとなるとそれなりのお金が必要になります。しかし、手取りが20万以下のことも珍しくない現代の日本男性にそんなこと可能でしょうか。昭和の時代より社会保険料も年金も子供の教育費も上がっています。お金をたくさん稼げて、心身共に健康で、家族の精神的支柱にならなければなりません。そこまでのことができる強い男性がどれだけいるのでしょうか。そうなれなかった男性はどうすればいいのでしょうか。

 

  現代の若い男性は昔に比べて男らしくない、といった単純な話ではありません。昔だって能力の低い男性はたくさんいました。そういった人たちは子供のころから周囲より劣っている、という自己否定感を持ちながら育つことになります。もちろん女性でもどうして自分は周りより勉強ができないのかとか、運動ができないとか、見た目がよくないとか、劣等感で悩むことはあります。しかし、男性と女性ではプライドが傷つけられたときの反応が違います。プライドが傷つけられた男性は理不尽に怒ったり、他人を傷つけることがあります。衆目をはばからず怒鳴っている高齢男性なんかはそれにあたりますね。それだけ周囲の人間、社会から求められている男像に自分がなれない悔しさ、それが人にさらされてしまう恥ずかしさは強いのです。そして傷ついた男性の先には自傷、あるいは他害があります。

 

  日本でノーベル賞をとる人がみな男性なのをみれば、男性が女性より優秀な人が多いのは明らかですが、一方、刑務所に収監されているような犯罪者、特に重刑者も圧倒的に男性が多いです。女性は全体として平均的ですが、男性は極端に差があるといえます。犯罪者には学習障害など生まれつき平均より低い能力しか持っていない人も多いです。つまり、家父長制の存在は劣った男性たちのプライドを傷つけ、自傷あるいは他害に向かわせるのです。センセーショナルな大量殺人事件が起きれば、人々は「どうしてそんなひどいことをしたんだ」とか「そんなやつは死刑にしろ」とか言いますが、この辺りに動機があるのではと思います。追いつめられた弱者男性が自殺する代わりに社会にいる人たちを殺して復讐した気になっているのです。

 

  そもそも日本の家父長制は武家や貴族など一部の伝統的な家にあったものが、明治維新以降、欧米的価値観として庶民にも広がっただけです。狩猟採集時代も農耕時代も日本人は男女ともに集団で協力しあって食いぶちをつないできました。男性だからお金を稼がないといけないとか、家族を支配するような強さがないといけないということはありません。お金は稼げる人が稼げばいいし、頭が悪くても体格に恵まれなくても男としての価値が下がるということはありません。妙なプライドは捨てたほうが男性は生きるのが楽になると思うし、女性も支配的な男性がいなくなって幸せになれると思います。

 

https://twitter.com/UNIC_Tokyo/status/1728272898543202676?t=K59Ub4n4blgcx29YMkWv4A&s=19

 

 

 

 

映画LAMB/ラム感想・考察~犬は○される、猫は見てるだけ

    LAMB/ラムは2021年のアイスランドスウェーデンポーランド合作のホラーファンタジー映画です。ミッドサマーなどの配給会社A24が北米配給権を獲得したことでも話題になりました。

 

    前半はセリフも少なく、ほぼ定点カメラで雄大な山々のなか、羊たちを世話する夫婦の生活がたんたんと描かれます。日本人にとってはアルプスの少女ハイジを思い出させる光景ですし、田舎でのライフスタイルを紹介するNHK番組を見ているような癒しがあります。寂しい夫婦の生活は頭と右手は羊、胴体と左手は人間というアダちゃんの誕生で一変します。

 

    キリスト教圏の人にとっては子供のいない夫婦、妻の名前がマリア、羊飼い、といった要素から聖書を思い出さずにはいられないでしょう。そうなるとアダはイエス・キリストの暗喩なのか?その割には人間のようで人間じゃなくて気持ち悪い、とか考えているうちに異教の神のような化け物が出てきて人間は殺され、アダは連れていかれてしまいます。日本人からしたらちょっと怖い不思議な絵本みたいな話でも、キリスト教圏の人が見たらすごい違和感と恐怖を感じられるのだと思います。一神教の人には異教徒への嫌悪が遺伝子レベルで刷り込まれているのでしょう。

 

    冒頭から馬、羊、犬、猫とたくさんかわいい動物が出てくるのもこの映画の魅力です。重大なネタバレになりますが、犬が殺されるシーンがあるので犬を飼っている人は見ないほうがいいかもしれなません。犬は人間によく従って懐いてついてくるのに、アダに対しては怯えています。猫(キジトラ)は人間にご飯をもらっていますがあまり人間を気にしている様子はなく、アダのこともじっと見ているだけです。何が2匹の運命を分けたのか、犬はラムマン(羊の怪物)に殺されてしまいます。猫は草むらに隠れてやりすごします。その後、猫はアダに抱かれてゴロゴロとのどを鳴らしていました。猫のちゃっかりとした世渡り上手っぷりが出ていましたね。

 

    寂しい人間が異形の生き物をかわいがって家族にするけれど、結局は住む世界が違う、いっしょにはいられない、というストーリーは日本の「つるの恩返し」や「かぐや姫」にもあります。不思議な生き物に接触してみたい気持ちと人ならざるものへの恐怖、人の世界と人外の越えられない壁、といったモチーフはどこの国でも共通のおとぎ話になるのかもしれません。

 

 

優生思想VS愛

 いま老人叩きがブームですよね。老人は何の役にも立たないのに病院に毎日行って国の社会保障費をいっぱい使ってる。その分、若者の税負担は大きくなってる。でも少子高齢化で老人の人口が多いから、政治家は老人のための手厚い社会保障をやめない。だから老人を叩いてもいいし、詐欺や強盗被害のターゲットになるのもいい気味だ。そういった老人への憎しみが高まっているような気がします。それでは身体障害者精神疾患の人はどうでしょう?生まれつき知的障害があって働けず、世話をしてくれる親が死んだあとは施設に入るしかない人もいます。そういった人たちのために税金が使われているのは無駄ですか?老人だって生産性がありませんし、だんだん自分でトイレに行ったり食事をすることもできなくなってきます。そうなったら人間おしまいですか?もう価値はないですか?

 

    優生思想の話になってきてしまいましたね。でもみんな資本主義に染まりすぎだと思うんです。金を稼げる人間かそうでないか、役に立つか立たないか、得をするか損をするか、といった事を重要視する価値観が広く浸透しています。人のアラ探しをし、旅行や食事に行ってもおいしいものを食べれたかとかいいホテルに泊まれたのかといったことばかり気にしています。でもそういった価値観はいずれ自分自身の首をしめることになるのではないでしょうか?だれもみな老いて、死んで役に立たなくなります。金を稼げるか、役に立つのか、といったことを重要視していると、自分が老いて役に立たなくなったとき、自分に価値がなくなったように感じてしまうのではないでしょうか?

 

 大切なのはだれかと同じ時間を過ごせることであって、損得だとか、役に立つか立たないか、なんてことではないんじゃないでしょうか。例えば自分の大切な人が急に障害者になったとしても、その人に優しくするはずですよね。本当はとても簡単な事のはずです。お金を稼げなくても役に立たなくても、だめな人間だと思わなくていいんです。資本主義的な価値観が優生思想を進めた結果おきるのは自殺であり、無敵の人です。生産性がないといって排除するのを続けていけば、社会全体が生きづらいものになってしまいます。意味のない人間なんて本当はいないはずなのです。

 

父への書簡

 

 

 わたしがパパにされたことが苦しかったとを話せば、「人のせいにするな」「過去のことをいつまでも言うな」「誰のおかげで医学部に行けたと思ってるんだ」と言われる。パパがわたしのためにしてくれたことには感謝している。でもだからいって、パパがわたしにひどい言葉で傷つけたこと、わたしを侮辱したこと、過干渉とコントロールでわたしを苦しめたことを埋め合わせることにはならないと思う。

 

 大学受験の頃、模擬試験の悪い結果をつきつけられて、長時間にわたって責められた。それはわたしにとって、つらく耐えがたい屈辱だった。パパに怒鳴られて1時間以上泣いて泣き疲れて寝ていたけれど、そんな時間があったらもっと勉強したほうが効率的だったと思う。

 

 医師になって5年目、メンタルを崩して目黒区の家に戻ったとき、パパの反応は冷たいものだった。わたしはかねてからの気分の落ちこみに加え、吐き気や立ちくらみ/倦怠感/食欲不振/便秘/過眠といった身体的な症状に悩まされており、わたしはだめな人間だ、と思って病院のトイレで一人で泣いてばかりいた。だがパパはわたしの精神疾患を理解しようとせず、実家で何もしない私に対して着替えろ風呂に入れと怒鳴ったりしていた。食事の時間は沈黙で気まずく、話しかけても冷たい反応をされるだけだった。ママは私に「外で部屋を借りなさい、パパはもう少しで爆発しちゃうから」と言った。

 

 他にもわたしの服装や体型、交友関係、仕事やアルバイト、趣味、部活動にいたるまであらゆる過干渉を受けた。わたしにとって家は息苦しいものであり、疲れた表情、つらい表情をしているだけで「なんでそんな顔しているんだ」と怒られた。それはわたしが成人になっても、経済的に独立しても変わらなかった。干渉はわたしの医師としてのプライドにまで及んだ。パパは「患者さんに優しくしろ」「医師だからといって偉そうにするな」と何度も恐ろしい顔をして言った。そういう説教を受けるということはわたしは患者さんに優しくできていないのだろうか。偉そうにしているのだろうか。

 

 パパは人やもののアラを探し、口をへの字に曲げて悪口を言ってばかりだと思う。会社のだれだれが頭が悪い、親戚のだれだれが愚かだ、芸能人のだれだれが馬鹿だというような話をしょっちゅうしている。そしてそれはわたしにも及ぶ。パパはわたしのアラをいつも探し、わたしが何をしてもけっして満足することはなく、延々と説教や干渉を続ける。わたしを下に見て、わたしが自分の思い通りにならないとママにお前のしつけが悪いと言ったり、調子にのっている、つけあがっている、などと言って馬鹿にする。パパは絶対に自分が正しい、どんなことでも子供は親の言うことを聞くべきだ、という思想を持っている。わたしはパパに対する行き場のない怒りをずっと抑えこんでいる。

 

 パパは金を稼げる人間か、役にたつかたたないか、といった価値観に支配されているのだと思う。人のアラ探しばかりしているし、旅行や食事を共にすればおいしいものを食べれたかとかいいホテルに泊まれたのかといったことばかり気にして不満を言っている。だがそういった価値観はいずれパパ自身の首をしめることになる。だれもみな老いて、死んで役にたたなくなる。金を稼げる人間か、役にたつかたたないか、といった価値観を持っていると自分が役にたたない迷惑な存在になったとき、自分が価値を失ったように感じてがっかりしてしまうのではないだろうか。そして周囲の人間には役にたたない、迷惑な存在だと思われて孤独になる。

 

 大切なのは家族で同じ時間を過ごせることであって、得をするか損をするか、役にたつかたたないか、なんてことではないのではないだろうか。体の動かないお年寄りや障がい者は無価値だろうか。意味がない存在ならそういった患者さんに優しくするのはなんなのだろうか。

 

 本当に大切なのは家族で同じ時間を過ごせることだと思う。パパの行動の根源には自分自身の人生に対する不満だとか自分が見捨てられることへの不安があるのかもしれない。わたしは本当はパパと旅行に行ったり、食事やイベントに行きたいと思う。日々あったことや悩みを話し合ったりしたい。でも怒鳴られることは怖いし、逃げ場のないところで大声でわめかれるのは生命の危機を感じさせるくらいのストレスだからそういうことがあるなら、いっしょにはいられない。

 

 

 

 

 

 

映画、小さき麦の花 感想

 

 邦題「小さき麦の花」でキービジュアルも美しい農村風景なので、「田舎の地道な清貧生活っていいよね、みんな自然に帰ろう!」みたいな映画と思いきや、中国農村部の貧しい障害者カップルの生活が妻の事故死で終わり、がんばって建てた家はショベルカーで潰されるという胸糞映画ですよ。

 私は英題が「return to dust」な事からこれは夫か妻かロバが死ぬな、と思いながら見てました。夫がRh(-)の希少な血液型で村の有力者に何度も献血するというシーンがあるので、夫がその関係で死ぬだろう、というかロバが死ぬなんて悲しすぎるから見たくない!と予想しましたが、妻があっさり事故死してしまいました。

 これだけだと悲しい結末のようですが、ラストシーンで①夫は農村の生活をやめるのに種麦を購入している、②都会の集合住宅の前に小さな畑がある、③家の解体シーンで夫が映らずそれまでほぼ固定されていた画角が急に上下にブレる、④ロバの顔が近い!ことから野に放ったロバが帰ってきて、主人公はそれに乗って新生活に向かう、というハッピーエンドだったのではないでしょうか。それならなぜそれを映さないかというと、政府の方針で今まで築いてきた農村生活を半強制的に都会化させておいて、よかったねーで済ませるシーンを悲惨に描くことで、中国では禁忌であるところの体制批判をしたかったのかもしれません。

 とにかくロバがかわいい!ロバに始まりロバに終わる映画で、特に関係ないシーンでもロバが画面の隅にいるのでずっとロバばかり見てました。大きさはちょっとしたポニーくらいで体毛はこげ茶っぽいけど目のまわりと足は白い。性格は穏やかでよくはたらく。道具をつなげることで畑を耕したりならしたり、当然運搬にも使われるし、家を建てるとき土レンガを上に運ぶ滑車にも使われていた。人にこき使われて黙々とはたらくロバは主人公たちの象徴だし、妻の「あなたに初めて会ったとき、他の人にぶたれていたロバに優しくエサをやっていた。あなたといっしょになってよかった」という言葉はこの映画そのものみたいだし、とにかくロバがキーパーソン!ロバが演技をするのがすごい。咳をする妻を心配そうに見るロバかわいい。自由になったのにこちらを振り返ってなかなか行こうとしないラスカルみたいなロバかわいい。「小さき麦の花」最高のロバ映画でした。

 

映画EO感想

 

  2023/5/5公開してすぐ、休日昼のヒューマントラストシネマ渋谷でEO見てきました。単館系のポーランド映画でいろいろ賞もとっているみたいです。悪天候でしたがほぼ満席でした。前の人の頭で少し見えづらかった💧

  ロバが主役のロードムービーということで画面の真ん中にずっとロバが映ってます!ロバ充できます!!重大なネタバレですがロバは死にません、よかった~。ですがロバがいろいろな持ち主のあいだを渡り歩いていくのを描くなかで、家畜や野生動物が殺されるシーンはあります(撮影で動物を傷つけることはしていないそうです)。ロバのEOちゃんも屠殺されそうになったりするのですが、ちょっとした偶然でなんとか生き残り羊牧場にたどり着きます。

  EOちゃんは小ぶりで体毛はグレー、目の周りは白、耳や背中に濃い茶色の線が入っているという標準的なカラーリングのロバです。性格は優しく、離れてしまった飼い主のお姉さんを思い出してご飯が食べられなくなるといった繊細な面がみられます。馬や犬におびえつつも荷馬車を引く仕事はしっかりする真面目なロバです。EOちゃんが前の飼い主を追いかけて脱走してしまうシーンがあるのですが、家畜が自分から安全圏を出ていくようなことは実際には考えづらいかとも思いました。物言えぬ動物の視点を通して、人間の身勝手さや自分で自分の運命を決められない理不尽さを描きたかったのでしょうね。そのため真面目で働き者のロバが選ばれたと思うのですが、ロバってあんまり人間のことなんて考えてなさそうな感じがして、そこがかわいいというか、アホっぽさがあっていいと思ってるので、そこは私の考えるロバ像とは違うかなと思いました。ロバの鳴き声も声をあげられない弱者の悲痛な叫びの比喩表現なんだと思うけれど、ロバの鳴き声ってもともと「う゛ぃや゛やあ゛ぁ゛ぁ~~!!」っていうびっくりするような大声だし、むしろ機嫌がいいときに鳴いてる。あと同じロバ映画の「小さき麦の花」でも思ったけれど、なんで子供がロバをかわいがってるほほえましいシーンとか雄大な自然の美しいシーンで悲しい音楽が流れるんだろう?それがアートなのかな。セリフもあまりなくて、ストーリーもこれで終わり?って感じだったけど映像としてきれいで、とにかくロバがかわいい!ロバが演技するのがすごい!のでオススメです。

 

映画NOPE感想

 

  恐怖と危険のなかにいる人間を見ることで、自分がいま安全な場所にいる幸せを感じることができますので、ホラー映画を見るのが好きです。スマホをデュアル画面にして片方の画面で映画を見ながら、もう片方の画面ではネットを開き、ネタバレを読んだりすると怖さをまぎらわせながら見ることができます。

  NOPEはー空を見てはいけないーーみたいなCMが流れていた2022年のアメリカのホラー映画です。UFOを撮影して一攫千金を狙う愉快な奴らが集まって、巨大な浮遊生物と戦います。監督がエヴァを参考にしているらしく、巨大UFOは使徒とかナディアでいうレッドノアに似ていました。補食される恐怖があっても見たい!撮りたい!という人間の欲深さを描いています。

  この映画の見どころはなんといっても馬です🐴タレント馬の牧場が舞台ということもあり、馬がずっと出演しています。クライマックスでは主人公がすさまじいスピードの駆け足で馬を乗りこなして巨大UFOを翻弄します。ウエスタン乗馬なので馬種はサラブレッドではなく、おそらくクォーターホース、毛色は黒鹿毛っぽい馬です。このラッキーという馬が本当に従順で優秀なんです。巨大UFOが迫ってきて怖いだろうに、主人公のそばから離れない!主人公が合図すれば乗りやすいように下に屈んでくれる!主人公も馬を大事にしており、追いつめられた場面でも馬の世話をし、馬をおとりにする作戦にも断固反対します。お互い信頼しあっているんですね☺️

  ラストシーンも馬ですし、B級ホラー映画🛸というより馬映画といっても過言ではないと思います。NOPEお勧めです🐎🐎

 

 

 

RRR感想

 

  Do you know ナートゥ?でおなじみのインドのアクション映画「RRR」みてきました。日本公開は2022年10月なのでもう8か月近いロングランとなっています。なん10回とみるリピーターも多く、コラボカフェをしたりアクリルスタンドを売ったりしているみたいです。オタクの心をがっちりつかんでますね。

    1920年代イギリス占領下で義兄弟になった男ふたりの熱い友情のはなしです。イギリス人に虐げられ、非人道的な扱いを受けるインド人がたくさん描かれますが、最終的にはイギリス人はみんなぶっ○されます。特にラストシーンでは主人公(兄)が馬に乗りながら弓矢と素手で1秒に3人ぐらい敵兵をじゃんじゃん殺していて、動きがもう人間じゃないし、矢がつきることもないし、インドの神様が乗り移ったとしか思えないです。途中で主人公(弟)がむち打たれながら歌で民衆を動かしたシーンで、暴力に屈せず立ち向かう精神が俺たちの武器なんだ!と非暴力革命につながるはなしなのかな、と思ったのですがそんなことはなく、暴力で敵をみな殺しにし、故郷に多量の銃を持ち帰るのでした。インド映画として思い浮かべるような愉快な音楽で敵味方関係なく大勢で踊るのはナートゥのシーンだけで、むしろナートゥだけ浮いていて、ナートゥはプロモーションのために差し入れたシーンなのかなとも思いました。

  この映画には馬🐴がたくさんでてきます。虎などほかの動物はCGで表現されるのですが、馬だけは本物です。特徴的な耳をもつのがインド固有種のマルワリです。マルワリは耳が内側にくるりと曲がってていて、両耳の先端がハート型をつくるようにくっついています。とても勇敢でインドの母国愛を象徴するような馬です。主人公(兄)は馬の扱いが上手で馬4頭を横にならべた馬車を一人であやつったり、バイクと並走してすごいスピードで駆け足したりします。特に乗馬用のブーツをはいたりすることもなく普段着のままさらっと乗り回すがカッコいいです。馬をかわいがるような描写はなかったのであくまで身近な移動手段のひとつなんでしょうね。

  とにかく人がたくさん死ぬシーンが多いのですが、馬は死なないのがよかったです🐎🐎RRRオススメです!

 

【灰羽連盟考察】罪を知るものに罪はない、汝は罪人なりや?

 灰羽連盟といえば20年近く前の1クールアニメであるにもかかわらず、いまだにインターネット上などで熱く語られ続けている作品である。なかには灰羽連盟のテーマとキリスト教的な原罪を結びつけて考察されているものも多い。


○罪を知るものに罪はない、汝は罪人なりや?

 罪を知ったものは罪がなくなってしまう。そして罪がなくなって、罪がないと思えばまた罪人になってしまう。この「罪の輪」という禅問答のような謎かけに「罪憑き」のラッカとレキは答えを出さなければならない。タイムリミットが来るまでに自分で答えに気づかなければ、巣立つことは出来ず、みなに忘れられ、灰羽ではなくなって灰羽連盟として町に留まることになる。確かにこの「汝の罪を思い出せ」という世界観はキリスト教的な原罪を思わせる。だれがグリの町をつくったのか?、だれが壁を越えようとしたものに罰を与えたのか?、だれが灰羽たちのタイムリミットを決めているのか?、など「神」の存在を示唆する描写も多い。


○原罪とは?

 キリスト教的な原罪とは、アダムとイブが善悪の知恵がついて神のようになれるという禁忌の果実を食べてしまったことだ。更に人間は神の子イエス・キリストを十字架にかけて殺してしまった。これにより全ての人間は神の手を離れた罪深い存在となってしまったのだ。再び神に繋がり救われるためには、自らの罪を認めて告白しなければならない。これがキリスト教的な原罪だ。これを高校の授業で知ったとき、なんでそんな神話時代の人たちの罪を背負わないといけないんだと思ったものだ。だがキリスト教の信者みんなが、アダムとイブの話を実際に起こったことだと思っているわけではないらしい。知り合いのキリスト教徒によると、聖書のなかのこと全てが実際に起きたわけではない、アダムとイブの話は聖書を書いた人たちがキリスト教のおしえをわかりやすくするためにした「例えばなし」なのだそうだ。つまり、人間はむかしから神にでもなったかのようにあらゆることに善悪をつけるという悪癖があったのだ。そしてイエス・キリストは人間に悪だと決めつけられ殺されてしまった。しかし、だれが善でだれが悪かなんて人間に決められることだろうか?勝手に悪と決めつけて傷つけるのは間違ったことではないだろうか?十字架にかけられたイエス・キリストは言った。「神よお許しください、かれらは自分が何をしているか知らないのです。」


○ラッカとレキの罪とは?

 灰羽連盟はストーリーが難解といわれており、私も灰羽たちが現世で死んだ子供たちであること、現世ではレキは線路に身投げをして自殺したであろうことに最終話近くになるまで気づかなかった。見直してみるとそれを示唆するような描写は多かった。ラッカが西の森の井戸に落ちるシーンではカッカッと階段を昇る音、ガチャッと扉を開く音が聞こえる。ラッカは建物の上から「落下」して自殺したのだ。同様にレキとは列車にひかれること、「轢」を表している。ラッカもレキも現世でのことは忘れてしまっていたが、自分を悪と決めつけ殺してしまったという罪を思い出すことで巣立ちの日を迎えることになる。


○カラスはレキだったのか?

 ラッカが自殺者であるとすると、ラッカを助けようとしたカラスは、現世でラッカを助けようとしたにもかかわらず、ラッカが気づくことができなかった存在ということになる。それはお父さんお母さんであったのかもしれないし、ラッカ自身であったのかもしれない。そう知ると、ラッカが井戸に落ちたカラスの死体を土に埋めるシーンは現世でのことを受け入れ、区切りをつけたという意味だったのかもしれない。この後灰羽連盟に助けられたラッカは「自分で自分をゆるすことは出来ない、だがおまえには鳥がいた」と、自分を助けようとしたカラスにより自身の罪がゆるされたことを知る。この時のラッカの「とてもたいせつな人を悲しませてしまった、あやまりたい」という言葉、レキの「みんなわたしを置いていく」といった言葉から察するに、現世でラッカはレキが助けようとしたにもかかわらず、自分はいてもいなくても変わらない、自分はここにいてもいい人間ではない、と考えてとびおり自殺をしてしまう、レキはそれを悲しんで線路にとびこんで自殺してしまう、といったことがあったのではないだろうか。ラッカのほうがレキよりあとにグリの町にやってきたのは、グリの町が時空を超越した世界だからと考えられる。灰羽になった2人は現世で会っていたことは忘れているが、オールドホームで交流を深めることで現世では出来なかった魂の救いを互いに与えあうことが出来た。


○わたしたちは?

 現世で暮らすわたしたちにとっても、早すぎる死をむかえた子供たちがどこかでしあわせに暮らしているというのは、心癒されることだ。実際に引っこみじあんで自分に自信のない人や、面倒見がいいようにみえて自分自身は他人に助けを求められない人は多いのだろう。そういった人はみずから死を選んでしまうかもしれない。それを防ぐにはどうしたらいいのだろうか?わたしたちはラッカやレキのようではないだろうか?わたしたちの周りの人はラッカやレキのようではないだろうか?隣にいる人とただそばにいてあげるだけでも、わたしたちは互いに救いを与えあうことが出来るのかもしれない。

元祖毒親本 スーザンフォワード「毒になる親」を読んで父と対決してみた

 近年、「毒親」という言葉が一般的になっており、毒親モノのエッセイ漫画や自己啓発本が多く発表されるようになった。そもそも「毒親」という言葉はアメリカのカウンセラーであるスーザン・フォワードの著書「毒になる親(原題:toxic parents)」に由来する。この本では親との関係に悩む患者たちとのカウンセリングを通して、毒親という概念、その対策、毒親に振り回されない生き方に至るまで事細かく説明されている。出版は1989年と30年近く前であり、2021年現在もカウンセリングを受けることや親を批判することがタブーとされる日本がいかに遅れているかと感じさせる。


◯人のせいにしてはいいのか

 近年のベストセラーになった本は「嫌われる勇気」「7つの習慣」「反応しない練習」など心理学的なアプローチに関するものが多い。マインドセットや瞑想も人気で、物質的な豊かさを追い求める時代から精神的豊かさや幸福を求める時代に変わってきているのを感じさせる。そういった本に書いてあることがすでにひととおり「毒になる親」にも書いてあった。つまり、怒りや悲しみといった自動的にわきあがる自分の感情を俯瞰的に見ることで冷静に相手に対処出来るということである。俯瞰することをメタ認知ともいう。相手を変えようとするのではなく、相手に振り回されないようにすることで自分の人生を生きよ、ということだ。アドラー心理学ではこれを「課題の分離」と呼んでいる。だが「毒になる親」がアドラー心理学と大きく違うのが、現在の苦しみを毒親による過去のトラウマによるものとしている点だ。アドラー心理学はトラウマの存在を否定し、苦しみの理由は自己にあるという。これが自己犠牲的な観念を持つ日本人の心に刺さったのだと思う。わたしも親に過去に親にされたことが苦しかったことを話せば、「人のせいにするな」「過去のことをいつまでも言うな」と言われる。しかし、本当に人のせいにしてはならないのだろうか。過去のことは現在の苦しみに何も関係していないのだろうか。「毒になる親」では以下のように述べている。(以下抜粋)

「自分の問題を他人のせいにしてはならない」というのはもちろん正しい。 大人としてのあなたの責任とは、現在自分が抱えている問題に対していますぐ建設的な対策を講じ、問題を解決する努力をすることなのである。


◯親と対決していいのか

 毒親との「対決」を勧めているのも本書の大きな特徴である。過去に親にされたこと、その時の気持ち、それが自分の人生に与えたこと、これからしてほしいこと、を親にはっきり伝えることによりのみ、過去のトラウマから解放され、心のなかに住んでいる傷ついた子供を癒し、苦しみや怒りを外に出すことが出来るという。これも和をもってよしとなす日本人には難しい話である。実際、本書でもこの「対決」をすれば親は怒ったり悲しんだりして親子関係が変わってしまうだろうと述べている。そして結果的に大事なのは親を変えられるかではなく、自分が親に対決出来たということだと言う。


◯親とどのように対決するか

 本書では他にも毒親が使いがちな言葉とそれに対する有能なワードが多く紹介されており、それをロールプレイングや架空の手紙書きで反復練習することで毒親と対決することが推奨されている。(以下抜粋)

「あぁ、そうなの」
「あなたがどういう意見を持とうと、もちろんあなたの自由ですよ」
「あなたが賛成してくれないのは残念ですが」
「それについてはもう少し考えさせてください」
「これについてはあなたがもう少し冷静なときに話し合いましょう」
「がっかりさせて申し訳ないけれど」
「あなたが傷ついたのは気の毒だけれど」
「あなたはもちろんそういう見方をするでしょうけれど」
「わたしのことをそうやってののしったりわめいたりしても、何も解決しませんよ」
「そういう決めつけは受け入れられません」
「あなたがそういうことを言うこと自体、こういう話し合いが必要だという証拠です」
「わたしに対してそういう言い方をするのはよくないことです」
「わたしの話を最後まで聞くと同意したでしょう」
「あなたが覚えていないからといって、この事実がなかったということではないのですよ」
「あなたは覚えていなくても、わたしは覚えています」
「そうやってわたしのせいにするのは勝手だけど、そんなことをしてもわたしが子供のときにあなたがしたことの責任を逃れられるわけではないのですよ」
「悲しい思いをさせて申し訳ないけれど、だからといってやめるわけにはいかないんです。わたしも長い間傷ついてきたんですから」
「あなたの怒りの原因について話し合うなら喜んで応じるが、わたしをそのようにののしったり侮辱するのはもう許さない」
「あなたがそんな風にしてわたしを困らせようとするのをやめる気になったら、わたしはいつでも話し合いに応じますよ」
「わたしはリスクをおかして自分の気持ちを正直に話したのです。あなたもそうしてみたらどうですか」
「あなたが手助けしようとしてくれるのはわかりますが、この問題はあなたには理解出来ないことなのです。だからいまあなたと特に話し合いたくありません」
「あなたは自分のよく知らないことに対して独断的な決めつけを行っています」


◯自分の親は毒親なのか

 わたしはこの本の中のことが本当によく当てはまっていて、読むのが苦しいくらいだった。わたしは父に対する行き場のない怒りをずっと抑えこんでいて、それはときどき噴火する火山のように外部からのプレッシャーが高まると爆発していた。何をしていても自分が不十分なように感じていた。父はけっして満足することはなかった。わたしがどれだけやっても不満なのだ。父はわたしが自分の望むようにならないことは全て悪いほうに解釈した。わたしが自分の思い通りにならないと、大声でわめいたりひどい言葉でののしった。わたしは何を達成したかという外面的なことによってのみ、自分の価値を証明しなければならなかった。父は不機嫌な顔をしたり、うるさく小言を言うことで家族をコントロールしていた。わたしの子供時代には、自分は愛され守ってもらっているという安心感はなく、いつも何かに追いかけられているような不安感から逃れられなかった。父は子供を叩きたいという自分の衝動をコントロールできず爆発させることがあり、その行動が子供の心にどのような結果をもたらすかということに無自覚だった。(日本では体罰が子供に必要と考える人が多いが体罰は一時的に押さえつける効果があるだけで子供の心に強い怒りや復讐心、自己嫌悪、大人に対する不信感を植えつけるだけだ。その怒りが自分の内面に向けられ、体の反応になって現れる。いつも体がだるい、抑うつ症状などがよくあるパターンである。)父は子供はどんなことでも親の言うことを聞くべきだ、親のやり方がぜったい正しい、子供は親に面倒をみてもらっているのだからいちいち言い分を聞いてやる必要はない、と考えていた。子供が怒りの感情を自由に表現することは許されず、その特権を持っていたのは父だけだった。謝るということが出来ず、そんなことをしたら面目を失うとか、軟弱さの証拠だとか、親の威厳がなくなると考えていた。(だが本来間違いをした時に謝ることが出来る人というのは人格者であり、そういう行動は勇気があることの証拠である。)


◯実際に対決してみた

 過去に親にされたこと、その時の気持ち、それが自分の人生に与えたこと、これからしてほしいことの4つを伝えるためにわたしはスライドを作成した。それが以下の画像である。
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 ここで自分の言葉で今まで父にされた過干渉やコントロール、大声で怒鳴られることがどんなに恐ろしいことか、現在のわたしの精神に負の影響を与えているか、わたしがわたしのことをするのにもう何の干渉もしてほしくないこと、言いたいことは怒鳴らないで静かに伝えてほしいことを説明すべきだった。しかし、わたしは恐怖で何も言えなかった。父はしばらく画像を見てから「それはお前が電話に出ないからだろ!」「お前が医学部に行けたのも誰のおかげだと思ってるんだ!」などと怒鳴りだした。そこで「わたしのためにしてくれたことには感謝している。だがそういうことがあったからといってあなたがわたしにいつもひどい言葉で傷つけたこと、わたしを侮辱したこと、過干渉とコントロールでわたしを苦しめたことを埋め合わせることにはならないんです」と冷静に返さなければならなかったのに、わたしはなんだか笑ってしまった。怒っている人を見て怖いのに笑ってしまったのだ。子供時代は父が怒鳴れば怖くて泣いていた。でも今目の前にいたのは、目の下が窪み口がへの字に曲がっている太った背の低い老人が、鬼のような形相をして訳のわからないことを大声でわめいている姿だった。人前で感情をあらわにして叫ぶなんて滑稽でみっともないとさえ思った。


毒親の親は毒親

 彼ら毒親の行動の根源には自分自身の人生に対する根深い不満と自分が見捨てられることへの不安があるという。自身も親から暴力を受けて育っているケースが多く、家庭では体罰が当たり前になっていた傾向にあるらしい。大人になってからの行動の多くは、自分が子供の頃に体験し学んだことの繰り返しである。自分の力では対処出来ない問題が起きたとき、あるいは自分が対処しきれない感情、特に怒りが生じたとき唯一取ることの出来る行動が暴力だったのである。子供の時から感情的に満たされず大きなフラストレーションを抱えたまま大人になっている。つまり彼らは情緒面では子供のまま成長してしまったのだ。負わされたものはその原因になった人間に返さない限り、次の人に渡してしまうという。でも、この家系の負の連鎖を断ち切れば後の世代をも救うことになる。わたしがそれになれたかはわからない。ただわたしはこれから自分の子供をもうけることはないし、兄はいい父親をしているようなので連鎖は止まったのだろう。そう、思いたいです。

【現代の駆け込み寺】東京のホステルおすすめ6選

 私には住所不定無職だった時期がある。2018年9月、上司と喧嘩して勤務していた北関東の病院をやめた。精神的体調を崩して東京の実家に戻ったものの父母の反応は冷たいものだった。私はかねてからの気分の落ちこみに加え、吐き気や立ちくらみ/倦怠感/食欲不振/便秘/過眠といった身体的な症状に悩まされており、私はだめな人間だ、と思って病院のトイレで泣いていた。だが65歳以上の父母に精神疾患への理解があるはずもなく、実家で何もしない私に対して着替えろ風呂に入れと怒鳴ったりしていた。食事の時間は沈黙で気まずく、話しかけても冷たい反応をされるだけだった。母は私に「外で部屋を借りなさい、パパはもう少しで爆発しちゃうから」と言った。とはいってもすぐに物件を探して契約するなんて出来ない。2018年11月、私はリュック1つで実家を出てカプセルホテル暮らしを始めた。カプセルホテルというと危険なイメージを持つ人が多いかもしれないが、現代のカプセルホテルはホステルと呼ばれ、シンプルで機能的な空間となっている。個人に与えられるスペースは狭くとも充電できるコンセントやフリーwifiがあるし、その狭さがあなぐらにもぐりこんだ感じで落ち着く。リネン交換やシャワー室もあって清潔だ。女性専用のフロアがあるところも多く、安全面が保たれている。それにとにかく安く1泊2000円程度で泊まれるところが多い。私が家出していた頃、ホステルは外国人観光客の利用者が多かった。しかしコロナ渦で外国人観光客がいなくなり、私が最も気に入っていたセンチュリオンキャビン赤坂スパもなくなってしまった。このホステルは建物全体が女性専用で、大浴場やサウナ、館内着の貸し出し、フリーのお茶/雑誌などがあって本当に居心地がよかった。私と同じように長期滞在している年配の女性がいたりして、その人がどんな人生を送ってホステル暮らしをしているかと思いを巡らせていたものだ。ホステルは観光客の宿泊施設というだけではなく、行き場を失った人を受けとめる現代の駆け込み寺であった。ホステルは特に浅草に多くあり、外国人観光客向けに和風の小物が飾られたり、畳がひかれた共用スペースで宿泊者同士が交流できるようになっていたりする。1泊2000円なら1週間いても14000円だ。行き場のない人にはホステル暮らしを勧める。以下に特に勧められるホステルを紹介する。


①ナインアワーズ(成田空港、北新宿、神田、大手町、赤坂、蒲田、半蔵門、浜松町、水道橋、新大阪、なんば、名古屋、博多、中洲、仙台)

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http://www.booking.com/Share-DIrBGk
 
 ナインアワーズ浅草を愛用していたのに閉業してしまっていた。だがナインアワーズは浅草以外にもたくさんあり、どこもほとんど同じ構造だ。とにかく機能的で無駄のない白い空間に泊まることで実験動物になったかのような、宇宙旅行に来たかのような気分になれる。ナインアワーズといいつつ連泊すれば24時間以上いられる。歯ブラシがもらえたり館内着の貸し出しがついてくるのもありがたい。


②BUNKA HOSTEL TOKYO(浅草)

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https://bunkahostel.jp/ja/

 浅草駅近くのモダンなホステルなのだが現在休業中だった。ホームページを見るといずれ復活するらしい。このホステルのいいところは1階が居酒屋レストランになっているところだ。ホステルに引きこもっていて困るのが食事だ。それでもこのホステルなら、外に出て食事を調達する気力がなくても1階のレストランで事足りる。もうここだけで生活が成り立つだろう。


③カオサン東京サムライ(浅草)

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http://www.booking.com/Share-oFUFSi

 サムライという名前のごとく和風なインテリアで外国人が喜びそうな要素がつまったようなホステルである。共用スペースに座敷とキッチンがあり、アットホームな雰囲気のなかでパソコンを開いたりおしゃべりを楽しんだりと、それぞれ思い思いに過ごすことができる。

 
④ゲストハウスtoco.(入谷)

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http://www.booking.com/Share-RYMU4I

 入谷駅近くの住宅街にある古民家を改装したホステルである。小さな日本庭園を縁側からながめ、木製の2段ベッドで寝ればおばあちゃんの家に来たような懐かしい気分になれるだろう。夜はバーで、朝はキッチンでスタッフの方の手作りのあたたかい食事をいただくこともできる。ただシャワーはついておらず近隣の銭湯を利用することになる。


⑤BOOK AND BED TOKYO(新宿、心斎橋、京都)

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http://www.booking.com/Share-lFVshO

 泊まれる本屋というコンセプトのホステルで、本がきれいに並べられた本棚のなかに眠るスペースがあるような構造になっている。個人スペースが狭くて女性専用エリアもないのだが、インスタ映えするインテリアを見るだけで楽しい。もちろん置いてある本は読み放題だ。ドリンクの注文やデイユースもできる。支払いがクレジットカードのみで現金は使えないのでそこは気をつけたい。


⑥トレインホステル北斗星(馬喰町)

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http://www.booking.com/Share-yKRXjT

 惜しまれつつも引退した寝台列車北斗星を再現したホステルである。実際の寝台列車の部品が再利用されており、トイレのドアもかつてのA寝台ロイヤルの扉がそのまま使われている。共用部ラウンジ/キッチンの“グランシャリオ”で車内放送や走行音の動画を聞けば、もうそこは寝台列車北斗星そのものだ。


※他にも個性的なホステルがたくさんある。コロナ渦で大変な苦境に立たされているかもしれないが、ホステルの文化がなくなって欲しくないと思う。ただ気にとめておきたいのはホステルで与えられる個人スペースは、座る分には問題ないが立つことは難しいくらい狭いということだ。トイレ、シャワーは共用だし、個人スペースに鍵をかけることは出来なくてカーテンなどの仕切りしかない。貴重品は常に身につけるなど、防犯の意識を忘れないようにしてホステルという空間を楽しんでほしい。


 

 

「お前はお父さんの本当の子じゃないんだよ」といういたずら電話の犯人がわかった話

 電話が嫌いだ。あのうるさい着信音が鳴ると生理的な不快感でいっぱいになる。たいていの事はメールやラインで済むのに連絡手段が電話しかないと困るし、急ぎの用でもないのに電話をかけてくるやつも滅んでほしい。しかし私の職場内の連絡手段はPHSなので、勤務時間中よく鳴るプププ…という音に悩まされている。少しでも早く鳴るのを止めてほしいので出来るだけ早く出るようにしている。厚かましくも、人の時間に突然けたたましい音で割り込んで強制的にコミュニケーションをとらせる電話というものは、人類最悪の発明だろう。


 私は小学生から高校生になるまでのかなり長い期間、「お前はお父さんの本当の子じゃないんだよ」といういたずら電話に悩まされていた。他のバリエーションとして「お前は浮気で出来た子なんだよ」、「◯◯(私の通っていた中学校)は裏口なんでしょ」といったものもあった。いたずら電話の主は私と同じ年頃の女の子供の声で、私が家の電話に出たときのみ、少し無言になってから「お前はお父さんの本当の子じゃないんだよ」といった事を言ってからブツっと電話を切る。両親に相談して家の電話番号を変えてもらってもその電話は来た。私はもう家の電話に出ないようにしていたが、数年たって忘れた頃にまた来る。当時は同じ学校の女生徒だと思っていた。その頃はそれぞれの家の電話番号が連絡網にのっていたので、同じ学年の生徒であれば電話番号が変わっても新しい番号を知ることが出来る。それにしても5年以上にわたってそんな電話をかけるものだろうか。それほど長い間同じ人に恨まれる覚えはなかった。私はほとんど家の電話に出ないようになっていたが、大学生になる頃にはそのいたずら電話自体来なくなっていたように記憶している。


 いたずら電話の犯人の正体がなんとなくわかったのは私が大学4年生の3月のことだった。父母から父には別の家庭があり、私の異母兄弟がいること、父母が結婚していないことを知らされた。そして今度は私の父母が結婚して、私と母の名字が父の名字に変わるということだった。これまで私にそんな重要な事を知らせていなかったことに対して、申し訳ないとか後ろめたそうな感じは一切なく、むしろ私のためにして面倒な手続きをしてやったという態度であった。私の異母兄弟は兄が3人と姉が1人いるらしい。ここで私はいたずら電話の主がその姉なのではないかと思った。私と同じ年頃の女の子供の声、「お前はお父さんの本当の子じゃないんだよ」という言葉、数年にわたって嫌がらせをするだけの理由がある人、電話番号が変わっても新しい番号を知りうる人。それに該当するのは会ったこともない姉しかいない。その事を父に聞くと、「あいつは◯◯(私の通っていた中学校)に受かる頭ないからな!嫉妬したんだろ」とのことだった。異母兄弟の長兄にも聞いてみたところ「わからないけど」と言って否定も肯定もしなかった。でもそれが答えだと思う。兄が姉のことをそんなことをするはずがないと思うなら、そう言うはずだ。そう言わなかったのは兄のなかでその可能性が高いのではないか、と考えたからではないだろうか。


 真相を確かめることは出来ない。もし犯人が姉ではなく第三者であるなら、姉に不信感を抱かせるという事を私に強いたということになる。だが状況からしていたずら電話の主は姉だろう。私は父が別の家庭を持っていることを大人になるまで知らず、父と母/私の名字が違うことに関心も持たずにのんきに過ごしていた。その間、姉は何を考えて暮らしてきたのだろう。「これからはママと◯◯(私の名前)でやっていくんだ」と平気な顔で言っていた父が理解出来ない。今でも私の前で異母兄弟のことを「あいつはろくに仕事が出来ない」、「親の言うこと聞かないでろくな生活してない」などと言える父が理解出来ない。いつか姉に会って、姉の気持ちを聞けるの日が来るのだろうか。そんな機会がこれからあるとすれば父の葬式だろうが、その時私はおそらく軽く会釈をするくらいしか出来ないだろう。それでいいし、血縁だろうとそんなものだと思う。