鬼滅の刃無限城編の映画みたよ考察
『鬼滅の刃 無限城編』ついに始まりましたね……!上弦との戦いがこれまで以上に苛烈で、映像と音の迫力がすごすぎて息を呑みました。テレビアニメシリーズでは出せない劇場ならではの緊張感があったと思います。梶浦由記さんの痛みと緊張感が感じられる旋律も素晴らしくて、獪岳戦クライマックスで流れたピアノの曲が特に印象に残りました。
炭治郎がたどりついた、鬼の首を切るために闘気を消して透き通る世界に行く、無我の境地にいたるっていうのはいわゆる「ゾーンに入る」ってことなんですかね?相手の動きがゆっくりみえたり自分の体が意識せずとも動いたり。実感としてはわかりにくい話だけど、例えば全然運動してない人が少しでもプールに行ったりするとすごく疲れる、でもスポーツ選手だと基礎練習をたくさんしててどうやって泳げばいちばん無駄がないかわかってるから、少し泳いだぐらいでは疲れない、みたいなことなのかな?同じジャンプ漫画でも「テニスの王子様」でも無我の境地は出てくるし、「黒子のバスケ」でもゾーンが出てくるのでなんとなくですがすぐに理解できました。
でも炭治郎の場合は、身体能力だけじゃなくて精神的な“清らかさ”みたいなものも重要になってくるから、同じ「ゾーン」でもちょっとトーンが違ってて、どこか宗教的な静けさというか、仏教的な悟りに近いような描かれ方してるのがすごく特異的ですね。炭治郎は、父親が熊を殺したシーンを思い出すことで無我の境地にいたるんですが、炭治郎の父親は熊を殺したあと熊の死体を拝んでました。多分、炭治郎のたどりついた無我の境地はスポーツの世界でいう「ゾーン」と少しちがくて禅の世界、呼吸を制御して相手への殺意も、何も考えていない状態にいくということなんでしょうね。ゾーンのようでいて悟り、戦いの中で祈り。鬼滅の刃がここまで多くの人の心に残る理由のひとつが、きっとこの“戦いを超えた何か”を描いているところにあるのかもしれません。
実は、個人的にはもともと鬼滅の刃ってそこまで好きじゃなくて、というのも鬼滅の刃ってこっちを泣かせようとしてくるような‘’泣き‘’描写が多くて、なんだか胸焼けしそうになってしまうんですよね。鬼には悲しき過去…で回想シーンに入るのはいいんですが、死んだ大切な人の姿が出てきて勇気づける言葉をくれるっていうシーンが多すぎないですか?今回の映画だけで死人と話すシーンが、しのぶ姉、善逸の師匠、猗窩座の想い人と師匠と父親のシーン、で3つもあるんですよ。死人がでてくるにしても姿だけが見えるとか生前の会話を思い出している、なら戦闘中で生命の危機にひんして幻をみてるんだろうなって理解できるんですけど、鬼滅の刃で死人と話すシーンって、死人が生きてる側のキャラクターが思ってもないことを言ったり、会話してくれたりするんですよね。これはもう黄泉のくにから死人が話しかけてきてるとしか思えない。それって変じゃないですか?死んだあとも会話できるなら生の重みが失われるというか。「今まさにこの瞬間に、亡くなった人が現れて、生きてるキャラを励ましてくれる」っていう演出があまりに頻繁すぎて、死の不可逆性がぼやけてしまってる、生きているうちに言葉を尽くす重みとか死別の取り返しのつかなさが軽くなっちゃってる気がします。
とはいえ、モノローグで過去回想したり、死人と長く会話したりすることはわかりやすいドラマになるし、今の説明を求める大衆に受けやすかったのだと思います。実際に今回の映画もまだ公開したばかりなのに何10億もの興業収入を叩き出してますからね。でも日本的な言わなくてもわかる、言葉にするのは無粋っていう価値観ではなくなってきてるなと思います。ネットやSNSの影響もあるのかもしれないですね。情報は常に“補足されるもの”で、“ちゃんと説明して言語化するべきもの”だという感覚が広がってる。その結果、登場人物の気持ちがその場で全部言葉にならないと気が済まない人が増えてるようです。
対して、猗窩座の「まっとうな人間になるという約束」も「やっと見つけた大切な家族」も守れなかった自分自身に耐えきれなくて自死を選ぶ、というのはすごく日本人的な発想ですね。猗窩座が死のうとしても鬼の体ではなかなか死ねないというシーンはかわいそうで憐れで、猗窩座が作中きっての人気キャラクターなのも大いにうなづけます。猗窩座が自死っていう父親と同じ道をたどるのは宿命だったんですかね?猗窩座の父親も息子が病気の自分のために泥棒を繰り返し、お金を工面しようとしてくれることが申し訳なくなって首を吊ってます。自分が情けなくて耐えられなくて死を選ぶ、この恥の概念は日本人的美学ですね。健康的な思考ではないけど、すごくよく理解できます。善逸の師匠も弟子から鬼をだした責任をとって腹切りしてるしね。大正時代の話なのでそういう時代背景もあったと思います。
猗窩座といえば、お前も鬼にならないか?がミーム化してるくらい勧誘キャラなんだけれど、この勧誘も根っこには大切な人を守るため、と師匠に教わった武道を人殺しのためにつかってるという後ろめたさから、同じことをする仲間が欲しかったっていうのがあったんだと思います。同じように“武の道を極めていて、でもいまだに人間である奴”に対して、共犯を欲しがってる孤独な叫び。自分のやってることを正当化してくれる、鏡のような相手が欲しかった。自分と同じ苦しみを抱えて、同じ罪を背負ってくれる相手が。でもそのすべての勧誘は失敗に終わってしまいます。炭治郎は絶対に人間でいることを選び、煉獄さんも最後まで折れず、武を命のために使いきった。だから猗窩座はいつまでも“ひとりぼっちの鬼”のままだった。「仲間が欲しい」「理解者が欲しい」っていう動機が出てくるのは、鬼でありながら人間らしいですね。
それと、今回の映画はキャラクターがデフォルメになるギャグシーンが少なくて大人もみやすかったと思います。鬼滅の刃のギャグの部分ってなんか寒いというか、子供には受けそうなシーンだし、そもそも少年ジャンプなんだからそれでいいんですが、過剰な“顔芸”というか、テンションの急降下シーンになってしまってるんですよね。それがかなり抑えられてたから、確かに全体のトーンが締まってて“大人でも見やすい”仕上がりになってたと思います。
ただ、あの“寒いギャグ”があることで、普段は怖くて観れないっていう子どもたちが「なんかおもしろい」って思える入り口にもなってるならいいですよね。比較的遅い時間帯に鑑賞したんですが、劇場には子供が多くみられて根強い子供人気を感じられました。やっぱり子供っていう次世代がはまってくれないとアニメも漫画もカルチャーとして先細りになっちゃいますからね。鬼滅って、やっぱり“子供が最初に出会う本格的な物語”として、すごくよくできてると思います。家族愛、死、喪失、努力、そして赦し――重いテーマを分かりやすく、しかもかっこよく見せてくれますからね。鬼滅の刃を観た子供たちの、一生の感受性に、強い原体験になってくれることを願います。
映像美×バイオレンス×エロス『ヴァージン・パンク』梅津ワールドが令和で再起動
梅津泰臣監督ってビジュアルとフェティッシュな描写に独特のセンスがある方で、劇場の大画面でその世界にひたれるというのは最高の体験になりました。それが40分程度なのは短かい!それこそ90~00年代のOVAぐらいの長さだし、キャラクターや世界観の説明、ストーリーとしては序章で終わる感じです。特別料金で1700円。美少女ガンアクションというのはまさに梅津監督の領域ですし、A KITEを思わせる美少女殺し屋が雇い主を殺そうとする話なので、「作家性×映像美×バイオレンス×エロス」の伝統的OVAが好きだった人は必見だと思います。
舞台はイタリアっぽい赤い屋根が続く治安の悪い街で、体の一部を機械に入れ替えるとか科学技術が現代より進んでる世界みたいですね。最後の風呂のシーンにもカラフルなステンドグラスがありましたし、音楽もルパンで流れそうなジャズっぽい曲があったりして、ヨーロピアンで色彩鮮やかな攻殻機動隊って感じです。梅津監督って元々セルアニメ全盛の時代に作画演出で頭角を現した人ですから、尺が短くても“画面で語る”力はすごかったですね。
ただわたしとしては、ルパンで流れそうなスタイリッシュでおしゃれな音楽が他のガンアクションアニメで流れるってダサいと思うんですよね、だってルパンじゃないから。特に、主人公がミスターエレガンスを殺そうとしても電源を切られて目覚めるたびに違う場所にいるっていうシーンで流れた軽快な音楽は銃と血、暴力の世界には軽かったように感じました。最後の戦闘シーンの音楽は激しいガンアクションと合っててよかったんですけど。
それとわたしはミスターエレガンス以外、登場人物の名前をひとりとして覚えられなかったです。あと主人公たちの職業、なんとかハンターってのも聞き取れなかったです。尺が短い割に情報量が多いから仕方ないんですけど、世界観が独特なこともあって耳慣れない言葉(固有名詞)があると混乱してしまって。公式ホームページで調べたら主人公の名前が神永羽舞さんみたいなんですけど、羽舞はマイって読むんですか?公式ホームページは読みまでちゃんと書いておいて欲しいです。主人公たちの職業はバウンティハンターとありました。つまり懸賞首ハンターってことですね。義体がソーマディアで、主人公が属することになった組織がアルキメdeathみたいですね。ホームページを見ないとわからないじゃなくて、作品は作品のなかだけで完結すべきだし、観客の没入感のためにも最低限の情報は明確に伝えてほしかったです。
あと主人公がいた児童養護施設の園長は、子供の親を殺して児童養護施設を運営してたそうですが、それってどういうことですか?この児童養護施設が税金だか寄付だかでまかなわれててそのお金を横領してたんでしょうけど、わざわざ子供の親殺さなくてもあんな治安の悪い町なら孤児いっぱいいるんじゃないですか?主人公が過去に「実は施設によって親を殺されていた」という悲劇を背負っている、敵に復讐する動機をわかりやすくするという展開にしたかったんでしょうか。
でも音楽や脚本の方がわるいわけじゃないと思います。それを通したのは梅津監督なんですからね。梅津監督ってもともとビジュアルとキャラ作画の天才肌で、前から言われてますけど、1カット1カットは天才なのに、1本の作品として見ると解せないところがあるんですよね。
とはいえまだ序章ですからね。今後、生身の体で戦っていたちょっとヘタレっぽい男とバディになって、外見と実年齢が逆転してる男女の関係性が描かれるんじゃないでしょうか。義体だらけの世界で「生身を残してる」という属性だけでももう対比として機能してるし、あの男は象徴的なポジションになりそうですね、すぐ死ぬ可能性もありますけど。背景にある「義体技術の倫理」や「支配構造」みたいなテーマが深掘りされるのかもしれません。なんにしろ続きが早く見たい!梅津監督の絵が好きなんですよ。A KITEを見て、あの影のある雰囲気や女の子の輪郭の柔らかさと瞳の描写、アクションシーンの間の取り方、そういうのが唯一無二で好きになりました。『ヴァージン・パンク』で梅津ワールドが令和仕様で再起動した感じがしてワクワクしますね。とにかく続編が楽しみです。
ちなみに、成人女性の肉体を消して脳だけ機械の少女の体に入れて人形のように操り、チェリーちゃんと呼ぶというあの変態野郎、ミスターエレガンスは梅津監督自身ってことでいいんですか?自分の中の美少女フェチを過剰にデフォルメして悪役にしたんですよね、本当に流石です。大好きですよそういうの。
「法で裁けない罪を許せるのか?」劇場版コナン隻眼の残像 考察
今更ながら2025年最新のコナン映画、隻眼の残像みてきました。最近のコナン映画は爆破シーンばかりで単なるアクション映画になってるという批判に応えた?のか、爆破シーンは抑えめでちゃんと推理してましたね。てっきり、少年探偵団が「パラボラアンテナがいっぱいだ!でけー!」って言い出した時点でパラボラアンテナ爆破されるな、と思っちゃったんですが、一つのパラボラアンテナがダンプカーで破壊されただけでほとんどのパラボラアンテナは無事でした。ガンアクション、カーチェイス、格闘シーンと映画でお約束のアクションシーンもあり、キャラクター全員に見せ場もあってよかったですね。音楽や効果音もすばらしく、緊迫したシーンが長く続いてもずっとダレずにドキドキさせてくれました。それに小五郎や長野県警のみなさんがイケオジに描かれていて画面が華やかでしたね。やたら漢詩を引用してくる諸伏高明さんの声優が速水奨さんなのも美しい低音で色気がありました。
コナンといえば動機!というぐらい動機がコナンの大事なパートだと思うんですね。動機が何なのかっていう謎が読者をひきつけるし、ルルルールー♪って太陽に吠えろのテーマが流れて、追いつめられた犯人が「でもあいつが…!」って泣きながら動機を語ることで、残酷な殺人者に感情移入させられてしまうんですよ。この犯人が動機を告白するところで人間ドラマをみせてくれるのがコナンの魅力の一つだと思います。それで今回の犯人は、恋人を殺した男が司法取引で減刑されて執行猶予ついちゃったことを恨んでる公安の警察官です。動機は、司法取引を推進する法律の成立をふせぎたいから、です。ただ愛する人を奪われたからっていう復讐じゃない、犯人の正義感を感じさせる動機だし、予測困難でよかったですね。冒頭のテレビニュースが伏線になってました。
しかも今回の犯人が犯した罪って歴代の犯人のなかでもトップクラスに重い。公安の立場を利用して日米の国家機密を傍受し、それで取引して司法取引推進の法律(証人保護プログラム)の成立をブロックしようとしてたんですよ。これは外患誘致になるかもしれないですよね。外患誘致は外国と共謀して日本に武力を行使させる行為で、外患誘致罪が実際に適用された人は今のところいませんが刑罰は死刑しかありません。今回の犯人が外患誘致罪に当たるかはわからないですが、日米に国家的危機をチラつかせて脅していたわけです。これは本当に死刑になる可能性が高いですよ。そこで公安が犯人に、公安との関わりを秘匿することで死刑を無期懲役という終身刑に減刑するっていう司法取引をもちかけるシーンで終わる。司法取引に反対していた犯人にとっては酷なラストです。これって子供向きとは思えない展開じゃないですか?司法取引にはじまり司法取引に終わった映画ですからまず、司法取引がなんなのか理解できないと全くわからないと思うんですけど子供たちは大丈夫だったんでしょうか。
それに、コナンって少年誌連載ですし作者の意向もあって、主人公サイドが犯人を追い詰めても犯人を死なせようとはしないんですよね。その辺りが金田一との違いですね、金田一は犯人死ぬこと多かったですから。コナンは子供にみせられるような遵法の正義の話になってる。コナンが犯人を立件しても私刑はせず、警察に引き渡して事件は解決する。ですから今回の映画で「死刑」って言葉が出てきたのは衝撃でした。だって今までコナンが立件した犯人のなかにも死刑になってる人がいるかもしれないってことですよね?それってもうコナンという主人公サイドが犯人を死なせてるってことになってないですか?それってコナンの倫理的には大丈夫ですか?直接的ではない遵法のなかの殺人ならいいってことなんでしょうか?
犯人が捕まってもこれでよかったのか?とモヤモヤしたものが残る‘’胸糞エンド‘’だったのも子供向けとは思えない結末でした。レクター博士が閉じ込められてそうなところにいた犯人は死ぬまでそこから出られなそうですし、犯人の恋人だった自殺した女性が戻ってくるわけじゃないですし。過去の事件の二人の犯人のうちの一人は、刑務所から出所したら執行猶予がついたほうの犯人に恨みをはらしにくるのでしょうか。それこそ証人保護プログラムで守られてしまうのかもしれません。そしたら執行猶予がついたほうの犯人のつぐないって何なのでしょうか?
大切な人を失って、やっと司法の場に引き出しても執行猶予。それで怒りの矛先も見つけられず、ただ苦しみが残るっていうのは現実にも起きてる問題だと思うんですよ。「法で裁けない罪」に対して、今回の映画では「警察手帳に付いてる桜の代紋が泣いとるぞー!」(※今回の映画と同じく警察官が犯人だった事件での服部平次の言葉)といった警察官としての使命から市民を危険にさらすべきではなかった、という遵法精神で終わったんですけどそれでよかったんでしょうか。映画をみた子どもたちにも「司法ってなんだろう」「正義ってなんだろう」って考えるきっかけになってくれたらいいですね。
それだけ重い問題をはらんだ大人向けの本格的刑事ドラマだったんですが、そのなかでもコナンや少年探偵団が活躍してて、ちゃんとコナンの映画になってたのがすごいですね。どれだけテーマが重くて構成が大人向けでも、コナンと少年探偵団がきちんと物語のなかで生きていて、しかも浮いてないっていうのは、脚本・演出の力量が相当高い証拠だと思います。現実の制度や人間の矛盾を扱いつつも、「コナン映画」という枠を守りきって“本格的刑事ドラマ”としても、“少年漫画の劇場版”としても成立してるっていう一見の価値ある映画でした。
そんなつらい展開のなかで、長野県警の幼なじみ組で大人のラブストーリーがあったのは希望がみえてよかったですね。ラブすすめてる場合じゃないだろ!っていう状況であるラブシーンが一番盛り上がりますからね。エンディング後のCパートが今後の二人の恋愛がすすみそうなシーンで終わるのもおしゃれでした。青山先生が幼なじみ第一主義なのでこの二人もいずれくっつくでしょう!
それと今回の映画では事前に、hellomovieというアプリをいれることでスマホから声優さんのオーディオコメンタリーが聞けるようになってました。これはすごくいいシステムですね。こういう試みがあれば何度も映画が楽しめるし、バリアフリー機能もついてるみたいです。今回の映画だったら芸人で弁護士のこたけ正義感さんを呼んでリーガルチェックしてほしいなぁ、外患誘致になるかとか詳しく解説してほしい!hellow movieはまさに映画館の新しい楽しみ方になっていて、映画館の未来に希望を感じさせられました。
秋です。家父長制による男性の生きづらさを解体しよう。
国連が家父長制を解体しようというツイートをして、そもそも日本にもう家父長制はない、検討違いなこと言うななどと叩かれているみたいです。国連が口を出すようなことかはわかりませんが、日本は現代でも家父長制に縛られていると思います。
家父長制は一家の長である男性が家族を経済的にも精神的にも支え、妻や子はそれに従うというものです。家父長制の反対は男性の支配にNOと言う、いわゆるフェミニズム的な思想ともとらえられがちですが、家父長制により苦しめられているのは女性だけではなく、むしろ男性のほうです。
まず第一に男性に求められる役割が重いです。妻子、場合によっては祖父母世代までの生活の面倒をみるとなるとそれなりのお金が必要になります。しかし、手取りが20万以下のことも珍しくない現代の日本男性にそんなこと可能でしょうか。昭和の時代より社会保険料も年金も子供の教育費も上がっています。お金をたくさん稼げて、心身共に健康で、家族の精神的支柱にならなければなりません。そこまでのことができる強い男性がどれだけいるのでしょうか。そうなれなかった男性はどうすればいいのでしょうか。
現代の若い男性は昔に比べて男らしくない、といった単純な話ではありません。昔だって能力の低い男性はたくさんいました。そういった人たちは子供のころから周囲より劣っている、という自己否定感を持ちながら育つことになります。もちろん女性でもどうして自分は周りより勉強ができないのかとか、運動ができないとか、見た目がよくないとか、劣等感で悩むことはあります。しかし、男性と女性ではプライドが傷つけられたときの反応が違います。プライドが傷つけられた男性は理不尽に怒ったり、他人を傷つけることがあります。衆目をはばからず怒鳴っている高齢男性なんかはそれにあたりますね。それだけ周囲の人間、社会から求められている男像に自分がなれない悔しさ、それが人にさらされてしまう恥ずかしさは強いのです。そして傷ついた男性の先には自傷、あるいは他害があります。
日本でノーベル賞をとる人がみな男性なのをみれば、男性が女性より優秀な人が多いのは明らかですが、一方、刑務所に収監されているような犯罪者、特に重刑者も圧倒的に男性が多いです。女性は全体として平均的ですが、男性は極端に差があるといえます。犯罪者には学習障害など生まれつき平均より低い能力しか持っていない人も多いです。つまり、家父長制の存在は劣った男性たちのプライドを傷つけ、自傷あるいは他害に向かわせるのです。センセーショナルな大量殺人事件が起きれば、人々は「どうしてそんなひどいことをしたんだ」とか「そんなやつは死刑にしろ」とか言いますが、この辺りに動機があるのではと思います。追いつめられた弱者男性が自殺する代わりに社会にいる人たちを殺して復讐した気になっているのです。
そもそも日本の家父長制は武家や貴族など一部の伝統的な家にあったものが、明治維新以降、欧米的価値観として庶民にも広がっただけです。狩猟採集時代も農耕時代も日本人は男女ともに集団で協力しあって食いぶちをつないできました。男性だからお金を稼がないといけないとか、家族を支配するような強さがないといけないということはありません。お金は稼げる人が稼げばいいし、頭が悪くても体格に恵まれなくても男としての価値が下がるということはありません。妙なプライドは捨てたほうが男性は生きるのが楽になると思うし、女性も支配的な男性がいなくなって幸せになれると思います。
https://twitter.com/UNIC_Tokyo/status/1728272898543202676?t=K59Ub4n4blgcx29YMkWv4A&s=19
映画LAMB/ラム感想・考察~犬は○される、猫は見てるだけ
LAMB/ラムは2021年のアイスランド・スウェーデン・ポーランド合作のホラーファンタジー映画です。ミッドサマーなどの配給会社A24が北米配給権を獲得したことでも話題になりました。
前半はセリフも少なく、ほぼ定点カメラで雄大な山々のなか、羊たちを世話する夫婦の生活がたんたんと描かれます。日本人にとってはアルプスの少女ハイジを思い出させる光景ですし、田舎でのライフスタイルを紹介するNHK番組を見ているような癒しがあります。寂しい夫婦の生活は頭と右手は羊、胴体と左手は人間というアダちゃんの誕生で一変します。
キリスト教圏の人にとっては子供のいない夫婦、妻の名前がマリア、羊飼い、といった要素から聖書を思い出さずにはいられないでしょう。そうなるとアダはイエス・キリストの暗喩なのか?その割には人間のようで人間じゃなくて気持ち悪い、とか考えているうちに異教の神のような化け物が出てきて人間は殺され、アダは連れていかれてしまいます。日本人からしたらちょっと怖い不思議な絵本みたいな話でも、キリスト教圏の人が見たらすごい違和感と恐怖を感じられるのだと思います。一神教の人には異教徒への嫌悪が遺伝子レベルで刷り込まれているのでしょう。
冒頭から馬、羊、犬、猫とたくさんかわいい動物が出てくるのもこの映画の魅力です。重大なネタバレになりますが、犬が殺されるシーンがあるので犬を飼っている人は見ないほうがいいかもしれなません。犬は人間によく従って懐いてついてくるのに、アダに対しては怯えています。猫(キジトラ)は人間にご飯をもらっていますがあまり人間を気にしている様子はなく、アダのこともじっと見ているだけです。何が2匹の運命を分けたのか、犬はラムマン(羊の怪物)に殺されてしまいます。猫は草むらに隠れてやりすごします。その後、猫はアダに抱かれてゴロゴロとのどを鳴らしていました。猫のちゃっかりとした世渡り上手っぷりが出ていましたね。
寂しい人間が異形の生き物をかわいがって家族にするけれど、結局は住む世界が違う、いっしょにはいられない、というストーリーは日本の「つるの恩返し」や「かぐや姫」にもあります。不思議な生き物に接触してみたい気持ちと人ならざるものへの恐怖、人の世界と人外の越えられない壁、といったモチーフはどこの国でも共通のおとぎ話になるのかもしれません。
優生思想VS愛
いま老人叩きがブームですよね。老人は何の役にも立たないのに病院に毎日行って国の社会保障費をいっぱい使ってる。その分、若者の税負担は大きくなってる。でも少子高齢化で老人の人口が多いから、政治家は老人のための手厚い社会保障をやめない。だから老人を叩いてもいいし、詐欺や強盗被害のターゲットになるのもいい気味だ。そういった老人への憎しみが高まっているような気がします。それでは身体障害者や精神疾患の人はどうでしょう?生まれつき知的障害があって働けず、世話をしてくれる親が死んだあとは施設に入るしかない人もいます。そういった人たちのために税金が使われているのは無駄ですか?老人だって生産性がありませんし、だんだん自分でトイレに行ったり食事をすることもできなくなってきます。そうなったら人間おしまいですか?もう価値はないですか?
優生思想の話になってきてしまいましたね。でもみんな資本主義に染まりすぎだと思うんです。金を稼げる人間かそうでないか、役に立つか立たないか、得をするか損をするか、といった事を重要視する価値観が広く浸透しています。人のアラ探しをし、旅行や食事に行ってもおいしいものを食べれたかとかいいホテルに泊まれたのかといったことばかり気にしています。でもそういった価値観はいずれ自分自身の首をしめることになるのではないでしょうか?だれもみな老いて、死んで役に立たなくなります。金を稼げるか、役に立つのか、といったことを重要視していると、自分が老いて役に立たなくなったとき、自分に価値がなくなったように感じてしまうのではないでしょうか?
大切なのはだれかと同じ時間を過ごせることであって、損得だとか、役に立つか立たないか、なんてことではないんじゃないでしょうか。例えば自分の大切な人が急に障害者になったとしても、その人に優しくするはずですよね。本当はとても簡単な事のはずです。お金を稼げなくても役に立たなくても、だめな人間だと思わなくていいんです。資本主義的な価値観が優生思想を進めた結果おきるのは自殺であり、無敵の人です。生産性がないといって排除するのを続けていけば、社会全体が生きづらいものになってしまいます。意味のない人間なんて本当はいないはずなのです。
父への書簡
わたしがパパにされたことが苦しかったとを話せば、「人のせいにするな」「過去のことをいつまでも言うな」「誰のおかげで医学部に行けたと思ってるんだ」と言われる。パパがわたしのためにしてくれたことには感謝している。でもだからいって、パパがわたしにひどい言葉で傷つけたこと、わたしを侮辱したこと、過干渉とコントロールでわたしを苦しめたことを埋め合わせることにはならないと思う。
大学受験の頃、模擬試験の悪い結果をつきつけられて、長時間にわたって責められた。それはわたしにとって、つらく耐えがたい屈辱だった。パパに怒鳴られて1時間以上泣いて泣き疲れて寝ていたけれど、そんな時間があったらもっと勉強したほうが効率的だったと思う。
医師になって5年目、メンタルを崩して目黒区の家に戻ったとき、パパの反応は冷たいものだった。わたしはかねてからの気分の落ちこみに加え、吐き気や立ちくらみ/倦怠感/食欲不振/便秘/過眠といった身体的な症状に悩まされており、わたしはだめな人間だ、と思って病院のトイレで一人で泣いてばかりいた。だがパパはわたしの精神疾患を理解しようとせず、実家で何もしない私に対して着替えろ風呂に入れと怒鳴ったりしていた。食事の時間は沈黙で気まずく、話しかけても冷たい反応をされるだけだった。ママは私に「外で部屋を借りなさい、パパはもう少しで爆発しちゃうから」と言った。
他にもわたしの服装や体型、交友関係、仕事やアルバイト、趣味、部活動にいたるまであらゆる過干渉を受けた。わたしにとって家は息苦しいものであり、疲れた表情、つらい表情をしているだけで「なんでそんな顔しているんだ」と怒られた。それはわたしが成人になっても、経済的に独立しても変わらなかった。干渉はわたしの医師としてのプライドにまで及んだ。パパは「患者さんに優しくしろ」「医師だからといって偉そうにするな」と何度も恐ろしい顔をして言った。そういう説教を受けるということはわたしは患者さんに優しくできていないのだろうか。偉そうにしているのだろうか。
パパは人やもののアラを探し、口をへの字に曲げて悪口を言ってばかりだと思う。会社のだれだれが頭が悪い、親戚のだれだれが愚かだ、芸能人のだれだれが馬鹿だというような話をしょっちゅうしている。そしてそれはわたしにも及ぶ。パパはわたしのアラをいつも探し、わたしが何をしてもけっして満足することはなく、延々と説教や干渉を続ける。わたしを下に見て、わたしが自分の思い通りにならないとママにお前のしつけが悪いと言ったり、調子にのっている、つけあがっている、などと言って馬鹿にする。パパは絶対に自分が正しい、どんなことでも子供は親の言うことを聞くべきだ、という思想を持っている。わたしはパパに対する行き場のない怒りをずっと抑えこんでいる。
パパは金を稼げる人間か、役にたつかたたないか、といった価値観に支配されているのだと思う。人のアラ探しばかりしているし、旅行や食事を共にすればおいしいものを食べれたかとかいいホテルに泊まれたのかといったことばかり気にして不満を言っている。だがそういった価値観はいずれパパ自身の首をしめることになる。だれもみな老いて、死んで役にたたなくなる。金を稼げる人間か、役にたつかたたないか、といった価値観を持っていると自分が役にたたない迷惑な存在になったとき、自分が価値を失ったように感じてがっかりしてしまうのではないだろうか。そして周囲の人間には役にたたない、迷惑な存在だと思われて孤独になる。
大切なのは家族で同じ時間を過ごせることであって、得をするか損をするか、役にたつかたたないか、なんてことではないのではないだろうか。体の動かないお年寄りや障がい者は無価値だろうか。意味がない存在ならそういった患者さんに優しくするのはなんなのだろうか。
本当に大切なのは家族で同じ時間を過ごせることだと思う。パパの行動の根源には自分自身の人生に対する不満だとか自分が見捨てられることへの不安があるのかもしれない。わたしは本当はパパと旅行に行ったり、食事やイベントに行きたいと思う。日々あったことや悩みを話し合ったりしたい。でも怒鳴られることは怖いし、逃げ場のないところで大声でわめかれるのは生命の危機を感じさせるくらいのストレスだからそういうことがあるなら、いっしょにはいられない。
映画、小さき麦の花 感想
邦題「小さき麦の花」でキービジュアルも美しい農村風景なので、「田舎の地道な清貧生活っていいよね、みんな自然に帰ろう!」みたいな映画と思いきや、中国農村部の貧しい障害者カップルの生活が妻の事故死で終わり、がんばって建てた家はショベルカーで潰されるという胸糞映画ですよ。
私は英題が「return to dust」な事からこれは夫か妻かロバが死ぬな、と思いながら見てました。夫がRh(-)の希少な血液型で村の有力者に何度も献血するというシーンがあるので、夫がその関係で死ぬだろう、というかロバが死ぬなんて悲しすぎるから見たくない!と予想しましたが、妻があっさり事故死してしまいました。
これだけだと悲しい結末のようですが、ラストシーンで①夫は農村の生活をやめるのに種麦を購入している、②都会の集合住宅の前に小さな畑がある、③家の解体シーンで夫が映らずそれまでほぼ固定されていた画角が急に上下にブレる、④ロバの顔が近い!ことから野に放ったロバが帰ってきて、主人公はそれに乗って新生活に向かう、というハッピーエンドだったのではないでしょうか。それならなぜそれを映さないかというと、政府の方針で今まで築いてきた農村生活を半強制的に都会化させておいて、よかったねーで済ませるシーンを悲惨に描くことで、中国では禁忌であるところの体制批判をしたかったのかもしれません。
とにかくロバがかわいい!ロバに始まりロバに終わる映画で、特に関係ないシーンでもロバが画面の隅にいるのでずっとロバばかり見てました。大きさはちょっとしたポニーくらいで体毛はこげ茶っぽいけど目のまわりと足は白い。性格は穏やかでよくはたらく。道具をつなげることで畑を耕したりならしたり、当然運搬にも使われるし、家を建てるとき土レンガを上に運ぶ滑車にも使われていた。人にこき使われて黙々とはたらくロバは主人公たちの象徴だし、妻の「あなたに初めて会ったとき、他の人にぶたれていたロバに優しくエサをやっていた。あなたといっしょになってよかった」という言葉はこの映画そのものみたいだし、とにかくロバがキーパーソン!ロバが演技をするのがすごい。咳をする妻を心配そうに見るロバかわいい。自由になったのにこちらを振り返ってなかなか行こうとしないラスカルみたいなロバかわいい。「小さき麦の花」最高のロバ映画でした。
映画EO感想
2023/5/5公開してすぐ、休日昼のヒューマントラストシネマ渋谷でEO見てきました。単館系のポーランド映画でいろいろ賞もとっているみたいです。悪天候でしたがほぼ満席でした。前の人の頭で少し見えづらかった💧
ロバが主役のロードムービーということで画面の真ん中にずっとロバが映ってます!ロバ充できます!!重大なネタバレですがロバは死にません、よかった~。ですがロバがいろいろな持ち主のあいだを渡り歩いていくのを描くなかで、家畜や野生動物が殺されるシーンはあります(撮影で動物を傷つけることはしていないそうです)。ロバのEOちゃんも屠殺されそうになったりするのですが、ちょっとした偶然でなんとか生き残り羊牧場にたどり着きます。
EOちゃんは小ぶりで体毛はグレー、目の周りは白、耳や背中に濃い茶色の線が入っているという標準的なカラーリングのロバです。性格は優しく、離れてしまった飼い主のお姉さんを思い出してご飯が食べられなくなるといった繊細な面がみられます。馬や犬におびえつつも荷馬車を引く仕事はしっかりする真面目なロバです。EOちゃんが前の飼い主を追いかけて脱走してしまうシーンがあるのですが、家畜が自分から安全圏を出ていくようなことは実際には考えづらいかとも思いました。物言えぬ動物の視点を通して、人間の身勝手さや自分で自分の運命を決められない理不尽さを描きたかったのでしょうね。そのため真面目で働き者のロバが選ばれたと思うのですが、ロバってあんまり人間のことなんて考えてなさそうな感じがして、そこがかわいいというか、アホっぽさがあっていいと思ってるので、そこは私の考えるロバ像とは違うかなと思いました。ロバの鳴き声も声をあげられない弱者の悲痛な叫びの比喩表現なんだと思うけれど、ロバの鳴き声ってもともと「う゛ぃや゛やあ゛ぁ゛ぁ~~!!」っていうびっくりするような大声だし、むしろ機嫌がいいときに鳴いてる。あと同じロバ映画の「小さき麦の花」でも思ったけれど、なんで子供がロバをかわいがってるほほえましいシーンとか雄大な自然の美しいシーンで悲しい音楽が流れるんだろう?それがアートなのかな。セリフもあまりなくて、ストーリーもこれで終わり?って感じだったけど映像としてきれいで、とにかくロバがかわいい!ロバが演技するのがすごい!のでオススメです。
映画NOPE感想
恐怖と危険のなかにいる人間を見ることで、自分がいま安全な場所にいる幸せを感じることができますので、ホラー映画を見るのが好きです。スマホをデュアル画面にして片方の画面で映画を見ながら、もう片方の画面ではネットを開き、ネタバレを読んだりすると怖さをまぎらわせながら見ることができます。
NOPEはー空を見てはいけないーーみたいなCMが流れていた2022年のアメリカのホラー映画です。UFOを撮影して一攫千金を狙う愉快な奴らが集まって、巨大な浮遊生物と戦います。監督がエヴァを参考にしているらしく、巨大UFOは使徒とかナディアでいうレッドノアに似ていました。補食される恐怖があっても見たい!撮りたい!という人間の欲深さを描いています。
この映画の見どころはなんといっても馬です🐴タレント馬の牧場が舞台ということもあり、馬がずっと出演しています。クライマックスでは主人公がすさまじいスピードの駆け足で馬を乗りこなして巨大UFOを翻弄します。ウエスタン乗馬なので馬種はサラブレッドではなく、おそらくクォーターホース、毛色は黒鹿毛っぽい馬です。このラッキーという馬が本当に従順で優秀なんです。巨大UFOが迫ってきて怖いだろうに、主人公のそばから離れない!主人公が合図すれば乗りやすいように下に屈んでくれる!主人公も馬を大事にしており、追いつめられた場面でも馬の世話をし、馬をおとりにする作戦にも断固反対します。お互い信頼しあっているんですね☺️
ラストシーンも馬ですし、B級ホラー映画🛸というより馬映画といっても過言ではないと思います。NOPEお勧めです🐎🐎
RRR感想
Do you know ナートゥ?でおなじみのインドのアクション映画「RRR」みてきました。日本公開は2022年10月なのでもう8か月近いロングランとなっています。なん10回とみるリピーターも多く、コラボカフェをしたりアクリルスタンドを売ったりしているみたいです。オタクの心をがっちりつかんでますね。
1920年代イギリス占領下で義兄弟になった男ふたりの熱い友情のはなしです。イギリス人に虐げられ、非人道的な扱いを受けるインド人がたくさん描かれますが、最終的にはイギリス人はみんなぶっ○されます。特にラストシーンでは主人公(兄)が馬に乗りながら弓矢と素手で1秒に3人ぐらい敵兵をじゃんじゃん殺していて、動きがもう人間じゃないし、矢がつきることもないし、インドの神様が乗り移ったとしか思えないです。途中で主人公(弟)がむち打たれながら歌で民衆を動かしたシーンで、暴力に屈せず立ち向かう精神が俺たちの武器なんだ!と非暴力革命につながるはなしなのかな、と思ったのですがそんなことはなく、暴力で敵をみな殺しにし、故郷に多量の銃を持ち帰るのでした。インド映画として思い浮かべるような愉快な音楽で敵味方関係なく大勢で踊るのはナートゥのシーンだけで、むしろナートゥだけ浮いていて、ナートゥはプロモーションのために差し入れたシーンなのかなとも思いました。
この映画には馬🐴がたくさんでてきます。虎などほかの動物はCGで表現されるのですが、馬だけは本物です。特徴的な耳をもつのがインド固有種のマルワリです。マルワリは耳が内側にくるりと曲がってていて、両耳の先端がハート型をつくるようにくっついています。とても勇敢でインドの母国愛を象徴するような馬です。主人公(兄)は馬の扱いが上手で馬4頭を横にならべた馬車を一人であやつったり、バイクと並走してすごいスピードで駆け足したりします。特に乗馬用のブーツをはいたりすることもなく普段着のままさらっと乗り回すがカッコいいです。馬をかわいがるような描写はなかったのであくまで身近な移動手段のひとつなんでしょうね。
とにかく人がたくさん死ぬシーンが多いのですが、馬は死なないのがよかったです🐎🐎RRRオススメです!
【灰羽連盟考察】罪を知るものに罪はない、汝は罪人なりや?
灰羽連盟といえば20年近く前の1クールアニメであるにもかかわらず、いまだにインターネット上などで熱く語られ続けている作品である。なかには灰羽連盟のテーマとキリスト教的な原罪を結びつけて考察されているものも多い。
○罪を知るものに罪はない、汝は罪人なりや?
罪を知ったものは罪がなくなってしまう。そして罪がなくなって、罪がないと思えばまた罪人になってしまう。この「罪の輪」という禅問答のような謎かけに「罪憑き」のラッカとレキは答えを出さなければならない。タイムリミットが来るまでに自分で答えに気づかなければ、巣立つことは出来ず、みなに忘れられ、灰羽ではなくなって灰羽連盟として町に留まることになる。確かにこの「汝の罪を思い出せ」という世界観はキリスト教的な原罪を思わせる。だれがグリの町をつくったのか?、だれが壁を越えようとしたものに罰を与えたのか?、だれが灰羽たちのタイムリミットを決めているのか?、など「神」の存在を示唆する描写も多い。
○原罪とは?
キリスト教的な原罪とは、アダムとイブが善悪の知恵がついて神のようになれるという禁忌の果実を食べてしまったことだ。更に人間は神の子イエス・キリストを十字架にかけて殺してしまった。これにより全ての人間は神の手を離れた罪深い存在となってしまったのだ。再び神に繋がり救われるためには、自らの罪を認めて告白しなければならない。これがキリスト教的な原罪だ。これを高校の授業で知ったとき、なんでそんな神話時代の人たちの罪を背負わないといけないんだと思ったものだ。だがキリスト教の信者みんなが、アダムとイブの話を実際に起こったことだと思っているわけではないらしい。知り合いのキリスト教徒によると、聖書のなかのこと全てが実際に起きたわけではない、アダムとイブの話は聖書を書いた人たちがキリスト教のおしえをわかりやすくするためにした「例えばなし」なのだそうだ。つまり、人間はむかしから神にでもなったかのようにあらゆることに善悪をつけるという悪癖があったのだ。そしてイエス・キリストは人間に悪だと決めつけられ殺されてしまった。しかし、だれが善でだれが悪かなんて人間に決められることだろうか?勝手に悪と決めつけて傷つけるのは間違ったことではないだろうか?十字架にかけられたイエス・キリストは言った。「神よお許しください、かれらは自分が何をしているか知らないのです。」
○ラッカとレキの罪とは?
灰羽連盟はストーリーが難解といわれており、私も灰羽たちが現世で死んだ子供たちであること、現世ではレキは線路に身投げをして自殺したであろうことに最終話近くになるまで気づかなかった。見直してみるとそれを示唆するような描写は多かった。ラッカが西の森の井戸に落ちるシーンではカッカッと階段を昇る音、ガチャッと扉を開く音が聞こえる。ラッカは建物の上から「落下」して自殺したのだ。同様にレキとは列車にひかれること、「轢」を表している。ラッカもレキも現世でのことは忘れてしまっていたが、自分を悪と決めつけ殺してしまったという罪を思い出すことで巣立ちの日を迎えることになる。
○カラスはレキだったのか?
ラッカが自殺者であるとすると、ラッカを助けようとしたカラスは、現世でラッカを助けようとしたにもかかわらず、ラッカが気づくことができなかった存在ということになる。それはお父さんお母さんであったのかもしれないし、ラッカ自身であったのかもしれない。そう知ると、ラッカが井戸に落ちたカラスの死体を土に埋めるシーンは現世でのことを受け入れ、区切りをつけたという意味だったのかもしれない。この後灰羽連盟に助けられたラッカは「自分で自分をゆるすことは出来ない、だがおまえには鳥がいた」と、自分を助けようとしたカラスにより自身の罪がゆるされたことを知る。この時のラッカの「とてもたいせつな人を悲しませてしまった、あやまりたい」という言葉、レキの「みんなわたしを置いていく」といった言葉から察するに、現世でラッカはレキが助けようとしたにもかかわらず、自分はいてもいなくても変わらない、自分はここにいてもいい人間ではない、と考えてとびおり自殺をしてしまう、レキはそれを悲しんで線路にとびこんで自殺してしまう、といったことがあったのではないだろうか。ラッカのほうがレキよりあとにグリの町にやってきたのは、グリの町が時空を超越した世界だからと考えられる。灰羽になった2人は現世で会っていたことは忘れているが、オールドホームで交流を深めることで現世では出来なかった魂の救いを互いに与えあうことが出来た。
○わたしたちは?
現世で暮らすわたしたちにとっても、早すぎる死をむかえた子供たちがどこかでしあわせに暮らしているというのは、心癒されることだ。実際に引っこみじあんで自分に自信のない人や、面倒見がいいようにみえて自分自身は他人に助けを求められない人は多いのだろう。そういった人はみずから死を選んでしまうかもしれない。それを防ぐにはどうしたらいいのだろうか?わたしたちはラッカやレキのようではないだろうか?わたしたちの周りの人はラッカやレキのようではないだろうか?隣にいる人とただそばにいてあげるだけでも、わたしたちは互いに救いを与えあうことが出来るのかもしれない。
元祖毒親本 スーザンフォワード「毒になる親」を読んで父と対決してみた
近年、「毒親」という言葉が一般的になっており、毒親モノのエッセイ漫画や自己啓発本が多く発表されるようになった。そもそも「毒親」という言葉はアメリカのカウンセラーであるスーザン・フォワードの著書「毒になる親(原題:toxic parents)」に由来する。この本では親との関係に悩む患者たちとのカウンセリングを通して、毒親という概念、その対策、毒親に振り回されない生き方に至るまで事細かく説明されている。出版は1989年と30年近く前であり、2021年現在もカウンセリングを受けることや親を批判することがタブーとされる日本がいかに遅れているかと感じさせる。
◯人のせいにしてはいいのか
近年のベストセラーになった本は「嫌われる勇気」「7つの習慣」「反応しない練習」など心理学的なアプローチに関するものが多い。マインドセットや瞑想も人気で、物質的な豊かさを追い求める時代から精神的豊かさや幸福を求める時代に変わってきているのを感じさせる。そういった本に書いてあることがすでにひととおり「毒になる親」にも書いてあった。つまり、怒りや悲しみといった自動的にわきあがる自分の感情を俯瞰的に見ることで冷静に相手に対処出来るということである。俯瞰することをメタ認知ともいう。相手を変えようとするのではなく、相手に振り回されないようにすることで自分の人生を生きよ、ということだ。アドラー心理学ではこれを「課題の分離」と呼んでいる。だが「毒になる親」がアドラー心理学と大きく違うのが、現在の苦しみを毒親による過去のトラウマによるものとしている点だ。アドラー心理学はトラウマの存在を否定し、苦しみの理由は自己にあるという。これが自己犠牲的な観念を持つ日本人の心に刺さったのだと思う。わたしも親に過去に親にされたことが苦しかったことを話せば、「人のせいにするな」「過去のことをいつまでも言うな」と言われる。しかし、本当に人のせいにしてはならないのだろうか。過去のことは現在の苦しみに何も関係していないのだろうか。「毒になる親」では以下のように述べている。(以下抜粋)
「自分の問題を他人のせいにしてはならない」というのはもちろん正しい。 大人としてのあなたの責任とは、現在自分が抱えている問題に対していますぐ建設的な対策を講じ、問題を解決する努力をすることなのである。
◯親と対決していいのか
毒親との「対決」を勧めているのも本書の大きな特徴である。過去に親にされたこと、その時の気持ち、それが自分の人生に与えたこと、これからしてほしいこと、を親にはっきり伝えることによりのみ、過去のトラウマから解放され、心のなかに住んでいる傷ついた子供を癒し、苦しみや怒りを外に出すことが出来るという。これも和をもってよしとなす日本人には難しい話である。実際、本書でもこの「対決」をすれば親は怒ったり悲しんだりして親子関係が変わってしまうだろうと述べている。そして結果的に大事なのは親を変えられるかではなく、自分が親に対決出来たということだと言う。
◯親とどのように対決するか
本書では他にも毒親が使いがちな言葉とそれに対する有能なワードが多く紹介されており、それをロールプレイングや架空の手紙書きで反復練習することで毒親と対決することが推奨されている。(以下抜粋)
「あぁ、そうなの」
「あなたがどういう意見を持とうと、もちろんあなたの自由ですよ」
「あなたが賛成してくれないのは残念ですが」
「それについてはもう少し考えさせてください」
「これについてはあなたがもう少し冷静なときに話し合いましょう」
「がっかりさせて申し訳ないけれど」
「あなたが傷ついたのは気の毒だけれど」
「あなたはもちろんそういう見方をするでしょうけれど」
「わたしのことをそうやってののしったりわめいたりしても、何も解決しませんよ」
「そういう決めつけは受け入れられません」
「あなたがそういうことを言うこと自体、こういう話し合いが必要だという証拠です」
「わたしに対してそういう言い方をするのはよくないことです」
「わたしの話を最後まで聞くと同意したでしょう」
「あなたが覚えていないからといって、この事実がなかったということではないのですよ」
「あなたは覚えていなくても、わたしは覚えています」
「そうやってわたしのせいにするのは勝手だけど、そんなことをしてもわたしが子供のときにあなたがしたことの責任を逃れられるわけではないのですよ」
「悲しい思いをさせて申し訳ないけれど、だからといってやめるわけにはいかないんです。わたしも長い間傷ついてきたんですから」
「あなたの怒りの原因について話し合うなら喜んで応じるが、わたしをそのようにののしったり侮辱するのはもう許さない」
「あなたがそんな風にしてわたしを困らせようとするのをやめる気になったら、わたしはいつでも話し合いに応じますよ」
「わたしはリスクをおかして自分の気持ちを正直に話したのです。あなたもそうしてみたらどうですか」
「あなたが手助けしようとしてくれるのはわかりますが、この問題はあなたには理解出来ないことなのです。だからいまあなたと特に話し合いたくありません」
「あなたは自分のよく知らないことに対して独断的な決めつけを行っています」
◯自分の親は毒親なのか
わたしはこの本の中のことが本当によく当てはまっていて、読むのが苦しいくらいだった。わたしは父に対する行き場のない怒りをずっと抑えこんでいて、それはときどき噴火する火山のように外部からのプレッシャーが高まると爆発していた。何をしていても自分が不十分なように感じていた。父はけっして満足することはなかった。わたしがどれだけやっても不満なのだ。父はわたしが自分の望むようにならないことは全て悪いほうに解釈した。わたしが自分の思い通りにならないと、大声でわめいたりひどい言葉でののしった。わたしは何を達成したかという外面的なことによってのみ、自分の価値を証明しなければならなかった。父は不機嫌な顔をしたり、うるさく小言を言うことで家族をコントロールしていた。わたしの子供時代には、自分は愛され守ってもらっているという安心感はなく、いつも何かに追いかけられているような不安感から逃れられなかった。父は子供を叩きたいという自分の衝動をコントロールできず爆発させることがあり、その行動が子供の心にどのような結果をもたらすかということに無自覚だった。(日本では体罰が子供に必要と考える人が多いが体罰は一時的に押さえつける効果があるだけで子供の心に強い怒りや復讐心、自己嫌悪、大人に対する不信感を植えつけるだけだ。その怒りが自分の内面に向けられ、体の反応になって現れる。いつも体がだるい、抑うつ症状などがよくあるパターンである。)父は子供はどんなことでも親の言うことを聞くべきだ、親のやり方がぜったい正しい、子供は親に面倒をみてもらっているのだからいちいち言い分を聞いてやる必要はない、と考えていた。子供が怒りの感情を自由に表現することは許されず、その特権を持っていたのは父だけだった。謝るということが出来ず、そんなことをしたら面目を失うとか、軟弱さの証拠だとか、親の威厳がなくなると考えていた。(だが本来間違いをした時に謝ることが出来る人というのは人格者であり、そういう行動は勇気があることの証拠である。)
◯実際に対決してみた
過去に親にされたこと、その時の気持ち、それが自分の人生に与えたこと、これからしてほしいことの4つを伝えるためにわたしはスライドを作成した。それが以下の画像である。




ここで自分の言葉で今まで父にされた過干渉やコントロール、大声で怒鳴られることがどんなに恐ろしいことか、現在のわたしの精神に負の影響を与えているか、わたしがわたしのことをするのにもう何の干渉もしてほしくないこと、言いたいことは怒鳴らないで静かに伝えてほしいことを説明すべきだった。しかし、わたしは恐怖で何も言えなかった。父はしばらく画像を見てから「それはお前が電話に出ないからだろ!」「お前が医学部に行けたのも誰のおかげだと思ってるんだ!」などと怒鳴りだした。そこで「わたしのためにしてくれたことには感謝している。だがそういうことがあったからといってあなたがわたしにいつもひどい言葉で傷つけたこと、わたしを侮辱したこと、過干渉とコントロールでわたしを苦しめたことを埋め合わせることにはならないんです」と冷静に返さなければならなかったのに、わたしはなんだか笑ってしまった。怒っている人を見て怖いのに笑ってしまったのだ。子供時代は父が怒鳴れば怖くて泣いていた。でも今目の前にいたのは、目の下が窪み口がへの字に曲がっている太った背の低い老人が、鬼のような形相をして訳のわからないことを大声でわめいている姿だった。人前で感情をあらわにして叫ぶなんて滑稽でみっともないとさえ思った。
彼ら毒親の行動の根源には自分自身の人生に対する根深い不満と自分が見捨てられることへの不安があるという。自身も親から暴力を受けて育っているケースが多く、家庭では体罰が当たり前になっていた傾向にあるらしい。大人になってからの行動の多くは、自分が子供の頃に体験し学んだことの繰り返しである。自分の力では対処出来ない問題が起きたとき、あるいは自分が対処しきれない感情、特に怒りが生じたとき唯一取ることの出来る行動が暴力だったのである。子供の時から感情的に満たされず大きなフラストレーションを抱えたまま大人になっている。つまり彼らは情緒面では子供のまま成長してしまったのだ。負わされたものはその原因になった人間に返さない限り、次の人に渡してしまうという。でも、この家系の負の連鎖を断ち切れば後の世代をも救うことになる。わたしがそれになれたかはわからない。ただわたしはこれから自分の子供をもうけることはないし、兄はいい父親をしているようなので連鎖は止まったのだろう。そう、思いたいです。


























