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【灰羽連盟考察】罪を知るものに罪はない、汝は罪人なりや?

 灰羽連盟といえば20年近く前の1クールアニメであるにもかかわらず、いまだにインターネット上などで熱く語られ続けている作品である。なかには灰羽連盟のテーマとキリスト教的な原罪を結びつけて考察されているものも多い。


○罪を知るものに罪はない、汝は罪人なりや?

 罪を知ったものは罪がなくなってしまう。そして罪がなくなって、罪がないと思えばまた罪人になってしまう。この「罪の輪」という禅問答のような謎かけに「罪憑き」のラッカとレキは答えを出さなければならない。タイムリミットが来るまでに自分で答えに気づかなければ、巣立つことは出来ず、みなに忘れられ、灰羽ではなくなって灰羽連盟として町に留まることになる。確かにこの「汝の罪を思い出せ」という世界観はキリスト教的な原罪を思わせる。だれがグリの町をつくったのか?、だれが壁を越えようとしたものに罰を与えたのか?、だれが灰羽たちのタイムリミットを決めているのか?、など「神」の存在を示唆する描写も多い。


○原罪とは?

 キリスト教的な原罪とは、アダムとイブが善悪の知恵がついて神のようになれるという禁忌の果実を食べてしまったことだ。更に人間は神の子イエス・キリストを十字架にかけて殺してしまった。これにより全ての人間は神の手を離れた罪深い存在となってしまったのだ。再び神に繋がり救われるためには、自らの罪を認めて告白しなければならない。これがキリスト教的な原罪だ。これを高校の授業で知ったとき、なんでそんな神話時代の人たちの罪を背負わないといけないんだと思ったものだ。だがキリスト教の信者みんなが、アダムとイブの話を実際に起こったことだと思っているわけではないらしい。知り合いのキリスト教徒によると、聖書のなかのこと全てが実際に起きたわけではない、アダムとイブの話は聖書を書いた人たちがキリスト教のおしえをわかりやすくするためにした「例えばなし」なのだそうだ。つまり、人間はむかしから神にでもなったかのようにあらゆることに善悪をつけるという悪癖があったのだ。そしてイエス・キリストは人間に悪だと決めつけられ殺されてしまった。しかし、だれが善でだれが悪かなんて人間に決められることだろうか?勝手に悪と決めつけて傷つけるのは間違ったことではないだろうか?十字架にかけられたイエス・キリストは言った。「神よお許しください、かれらは自分が何をしているか知らないのです。」


○ラッカとレキの罪とは?

 灰羽連盟はストーリーが難解といわれており、私も灰羽たちが現世で死んだ子供たちであること、現世ではレキは線路に身投げをして自殺したであろうことに最終話近くになるまで気づかなかった。見直してみるとそれを示唆するような描写は多かった。ラッカが西の森の井戸に落ちるシーンではカッカッと階段を昇る音、ガチャッと扉を開く音が聞こえる。ラッカは建物の上から「落下」して自殺したのだ。同様にレキとは列車にひかれること、「轢」を表している。ラッカもレキも現世でのことは忘れてしまっていたが、自分を悪と決めつけ殺してしまったという罪を思い出すことで巣立ちの日を迎えることになる。


○カラスはレキだったのか?

 ラッカが自殺者であるとすると、ラッカを助けようとしたカラスは、現世でラッカを助けようとしたにもかかわらず、ラッカが気づくことができなかった存在ということになる。それはお父さんお母さんであったのかもしれないし、ラッカ自身であったのかもしれない。そう知ると、ラッカが井戸に落ちたカラスの死体を土に埋めるシーンは現世でのことを受け入れ、区切りをつけたという意味だったのかもしれない。この後灰羽連盟に助けられたラッカは「自分で自分をゆるすことは出来ない、だがおまえには鳥がいた」と、自分を助けようとしたカラスにより自身の罪がゆるされたことを知る。この時のラッカの「とてもたいせつな人を悲しませてしまった、あやまりたい」という言葉、レキの「みんなわたしを置いていく」といった言葉から察するに、現世でラッカはレキが助けようとしたにもかかわらず、自分はいてもいなくても変わらない、自分はここにいてもいい人間ではない、と考えてとびおり自殺をしてしまう、レキはそれを悲しんで線路にとびこんで自殺してしまう、といったことがあったのではないだろうか。ラッカのほうがレキよりあとにグリの町にやってきたのは、グリの町が時空を超越した世界だからと考えられる。灰羽になった2人は現世で会っていたことは忘れているが、オールドホームで交流を深めることで現世では出来なかった魂の救いを互いに与えあうことが出来た。


○わたしたちは?

 現世で暮らすわたしたちにとっても、早すぎる死をむかえた子供たちがどこかでしあわせに暮らしているというのは、心癒されることだ。実際に引っこみじあんで自分に自信のない人や、面倒見がいいようにみえて自分自身は他人に助けを求められない人は多いのだろう。そういった人はみずから死を選んでしまうかもしれない。それを防ぐにはどうしたらいいのだろうか?わたしたちはラッカやレキのようではないだろうか?わたしたちの周りの人はラッカやレキのようではないだろうか?隣にいる人とただそばにいてあげるだけでも、わたしたちは互いに救いを与えあうことが出来るのかもしれない。